■節子への挽歌2442:見てくれている人
節子
最近、土日に遠方に出ることがつづいていますが、そのせいか、何か時間的な余裕がなくなっています。
私の場合、特に決まった仕事があるわけでもなく、時間はすべて自由に自分で使えるはずなのですが、土日にはゆっくりと休むことがないと気分的に落ち着きません。
これは長年の生活リズムのせいかもしれません。
平日に自宅でゆっくりしていると、何となく罪悪感に襲われるのも、そのせいでしょう。
最近は週末がほとんどゆっくりできません。
今度の週末も箱根で合宿です。
ホームページの更新も十分に出来ず、なにかと落ち着きません。
時間がないわけではありません。
暇で暇で仕方がないといいたくなるほど、その気になれば時間はつくれるのですが、その気にならないわけです。
困ったものです。
要するに生活にメリハリと節目がなくなっているのです。
なくなっているのは、節目やメリハリだけではありません。
前にも書きましたが、生きる基準がなくなってしまったのです。
これは、体験して初めてわかったのですが、一度、伴侶との生活に慣れてしまうと生きる基準が2つになって、それで安定します。
2つと言うのは、言うまでもなく、自分の視座あるいは立脚点と、伴侶のそれです。
本当は3点が一番安定するのでしょうが、それでは安定しすぎて、今度は窮屈になってしまいます。
基準が2つの生活は、適度に揺れながら、でも自らを相対化できる心地よさがあります。
私は、そうした生き方に40年、身を任せてきてしまいました。
ですから、自分以外のもう一つの基準点がなくなった衝撃はとても大きいのです。
自分が見えなくなってしまいそうです。
基準にはもう一つ大きな役割があります。
自分を外部から見ていて、評価してくれるという役割です。
すごくうれしいことがあっても、自分1人だけしか知っていないと思うとさびしくなります。
人は誰かに知ってほしいと思うことは少なくありません。
偉業をなした若者が、まずは母親に伝えたいという心境と同じく、人は誰かに褒めてもらうことをどこかで期待していますが、それは自分の生きる基準になっている人でなければなりません。
私の場合は、それが節子でした。
伴侶とは、「見てくれている人」なのです。
残念ながら、私の嬉しいことも哀しいことも、心から受け止めてもらえる人はもういません。
そうなると、人の生き方は粗雑になりがちです。
最近の私の生き方が、まさにそうなっているような気がしてなりません。
俗人は、どんなにあがいても、やはり「見てくれている人」がいないとがんばれません。
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コメント
佐藤様 この記事「見てくれている人」
この数百文字の文章からは、一冊の本を読んだような充実感が漂ってきます。
私は今、パソコンを二台開いて、一台は仕事をもう一台ではエクセル絵画を描いています。
忙しいはずの時間帯だったにも拘らず何気なく開いた「節子への挽歌」
どうしてこのような内容の文章が、数百文字で表すことができるのか?
素晴らしい(目上の方に失礼しました)
私が感じましたのは、佐藤さんは奥様に今も「恋」をしておられるように感じます。
純粋な恋なのか、純愛と言うべきなのか、私は純愛は恋だと思っております。
若いころは誰しも、多くの女性に恋心を描いたものですが、それは心の悪戯でしょうね
そのような恋心が本物の恋になったとき、男と女は結ばれることになるのかもしれません
そして、二人が結ばれた恋こそ、初恋だと思っております。
かっこよく言わせていただければ、初恋の人は「縁の人」だと、私議勝手我が儘に信じております。
今回の文章から佐藤さんが、今も奥様に恋をしておられるように、感じてしまいました。
私の率直な気持ちです。
投稿: 鳥取太郎 | 2014/05/26 23:12
太郎さん
ありがとうございます。
はい
いまでも恋しています。
投稿: 佐藤修 | 2014/05/27 07:28