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2014/06/04

■「自発的隷従論」

今から500年近く前の16世紀半ばに、20歳にも届かない青年が書いた小論を読みました。
エティエンヌ・ド・ラ・ボエシの「自発的隷従論」です。
昨年、ちくま学芸文庫から出版されました。
その書名が気になって購入したまま、忘れていました。
薄い文庫本なので、書棚に埋もれてしまっていたのです。
今朝、ある本を探していて、見つけました。
ページを開いたら、こういう書き出しで始まっていました。

「主君が複数いても、なにもよいことはない。頭(かしら)でも王でも、たったひとりが望ましい」と、ホメロスの作中のオデュッセウスは言い放った。
彼が、「主君が複数いても、なにもよいことはない」としか言わなかったとすれば、至言となったことだろう。
その言葉に魅了されて、一気に読んでしまいました。
なぜオデュッセウスの言葉は至言になりそこなったのか。
それに興味を感じたからですが、読み終わって、とても納得できました。
そして、なんでもっと早く読まなかったのだろうと思いました。
この本を読んでいれば、最近の私の厭世観も少しは緩和されていたかもしれません。

本書で、ラ・ボエシは、隷従こそは人間の「第二の本性」と指摘しています。
そして、隷従状況、つまり奴隷や家畜の状況から逃れたいのであれば、それは簡単なことだ、「もう隷従はしないと決意せよ。するとあなたがたは自由の身だ」と言うのです。
つまり、圧政者を支えているのは、圧政を受け容れている被支配者たちだというのです。
権力は、それを認める人がいればこそ成り立っているというわけです。
まさに昨今の政治状況そのものです。

人は生まれながらに自由ですが、その自由の故に、奴隷や家畜になって、実に惨めな人生を送ることになるわけですが、ラ・ボエシは、圧政者(権力者)やそこに群がる人たちを哀れみます。
彼らの人生を評して、「生きていると呼べるだろうか。こんなふうに生きるよりも悲惨な状態があるだろうか」と言うのです。
そして、その生き方は、同時にまた、隷従者たちの人生でもあるといいます。
圧政者と隷従者は、共犯者なのです。

中途半端な紹介ですが、「自発的隷従論」は、家畜的な生き方をしたくない人には、必読書のような気がします。
薄い文庫本なのに1200円ですが、1200円どころではない大きな価値のある本です。
まあ隷従を好む人には、価値のない本ですので、あんまり売れないでしょうが。

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