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2014/06/13

■オメラスとヘイルシャムの話その9

オメラスの話もヘイルシャムの話も、いうまでもなく、幸せとは他者の不幸の上に成り立つものであることを示唆しています。
その意味では、「幸せ」という概念を持った途端に、「不幸」への不安が発生するというわけです。
概念を持つということは、そういうことですから、仕方がありません。
しかし、そのことに大きな「落し穴」があるような気もします。

私は何か集まりをやる時に、いつも関係者にいうことがあります。
それはどんな結果になっても、結果がベストなのだということです。
それでは「進歩」がないではないかと言われそうですが、体験を重ねることが進歩なのだろうと思います。
もしかしたら、「生きる」ということもそうなのかもしれません。
「生きること」が、そのまま「幸せ」である時代もあったはずですが、いまの私も、残念ながらそうは思えなくなってしまっています。
しかし、「不幸な人生」など、本来、あるはずがありません。

オメラスとヘイルシャムが問いかけてくることは、際限なく、深まります。
またいつか考えたいと思います。
今日は、それどころではない大きな事件がまた起きてしまいました。
こうやって、オメラスとヘイルシャムも忘れられていくのでしょう。
どこかで流れが変わるとは思いますが。

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