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2014/06/11

■オメラスとヘイルシャムの話その4

オメラスの人たちが幸せでなかったことを知っていたのは、宮沢賢治でした。
賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と、「農民芸術概論綱要」に書いています。
地下室の子どもの犠牲の上に、自らの幸せはないとわかっていたのです。
そして彼はそれに基づいて生きました。

ヘイルシャイムのエミリー先生もまた、それに気づきました。
しかし、彼女は子どもたちを自分の仲間とは考えませんでした。
そのために構想は挫折し、彼女もまた自らの世界に引きこもりました。
子どもたちは同情の対象でしかなくなってしまったのです。
つまりは自分とは違う、地下室の世界をつくりあげたのです。

しかし、誰かの犠牲の上に、幸せな国は創れるでしょうか。
これは、おそらく「問題の立て方」が間違っています。
「問題の立て方」によって、世界はまったくちがったものになることは、このブログでも何回か書いてきました。
どんな難問も、問題の立て方ひとつで解けることもありますし、ことの本質を隠蔽することもできます。
ヘイルシャムをつくれば、問題が解決するわけではありません。

宮沢賢治の考えによれば、誰もが犠牲にならないことが「幸せになること」なのです。
コラテラルダメッジなどあってはなりません。
生贄を求める宗教と苦楽を共にする宗教との違いでもあります。
ここでも日本古来の宗教観と現代世界の宗教観が異質であることがわかります。

日本人は無宗教という言葉ほど、私の嫌いな言葉はありません。
熊野が世界遺産になった頃に出版された「熊野 神と仏」(原書房)に、熊野本宮神社の九鬼家隆さんと金峯山寺の田中利典さんと宗教人類学者の植島啓司さんの鼎談が載っていますが、そこで熊野の意味、宗教の意味がわかりやすく話されています。
田中さんは、「私は無宗教です」というのは「私は倫理観をもっていない恐ろしい人間です」というのと同じことになるとまで言っています。
前にも書きましたが、私もそう思っています。

話がそれてしまいました、地下室の子どもを仲間だと思えるかどうか。
それが大切なことです。
それがないといま裁判になっている韓国のセウォル号の船長と、結局は同じになってしまいます。

話が次から次へと拡散しますが、そこにこそ問題の本質があります。
オメラスもヘイルシャムも、まさに現在の社会と私たちの生き方を象徴している話なのです。
大切なことは、それに気づくかどうかだろうと思います。

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