■節子への挽歌2448:奪われてしまった「老い」
節子
昨日はちょっとダウンしてしまいました。
最近は本当に無理ができなくなりました。
それでも夕方は、気を取り直して、久しぶりに畑に行ってきました。
数日行けずにいたのですが、見事に野草の反撃で、花畑も野菜畑も草で埋もれそうになっていました。
4~5日、行かないだけでこのあり様です。
野草の成長は、そばでじっくり見ていたら、わかるかもしれなません。
5日で5~10センチは伸びているような気がします。
人間も若い頃は、このくらい元気なのでしょう。
しかし、最近の私は、ちょっと水をやらないとクタッとしてしまう野菜のようです。
いや少々水をもらっても、シャキッとできません。
困ったものです。
節子がいなくなってから、私は自分の年齢を客観的に実感できなくなっています。
自分は自分では見えないので、老化している自分になかなか気づかないものです。
伴侶の節子がいれば、節子の老いを自分に重ねて実感できますが、それがないとなかなか実感できません。
伴侶を失った人が、若さを維持できるのは、そのせいかもしれません。
不思議なもので、鏡に映る自分の「老い」はなかなか見えないものです。
写真を見ると、否応なく伝わってきますが、最近、私は写真を見る機会は少ないのです。
フェイスブックに使っている写真は、節子が撮ってくれたものですから、10年ほど前のものでしょう。
私自身の脳で自覚している自分と10年前の写真は、実はそう違わないのですが、外から見た私は、私の脳内自覚とは全く違っていることでしょう。
そんなことはわかってはいるのですが、自分の老化は、なかなか実感できません。
だからみんな「無理をしている」のに気づかずに、ある日、突然倒れるのかもしれません。
周りの人は迷惑でしょうが、本人は理想的かもしれません。
しかし、夫婦仲良く、自然に老いていくのが理想でした。
いたわり合いながら老いていき、いたわり合いながら旅立っていく。
そんな老後が奪われてしまったのが、残念です。
老体にムチ打って、今日も湯島に出てきました。
最近、手入れ不足のオフィスの植物やメダカは元気です。
老いているのは、私だけ。
ちょっとさびしいですが、この現実は変えられません。
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