■節子への挽歌2474:死がなぜこわいのか
節子
死がこわいという人がいます。
おそらく節子には、そういう感覚はなかったと思いますし、私にもありませんが、多くの人が死をこわがるのはどうしてでしょうか。
それがよくわかりません。
節子もそうでしたが、死は悲しく寂しいものです。
しかし、それは「こわい」というのとはかなり違います。
正確に言えば、死が悲しいのではなく、死によって、会えなくなる人がいることでしょう。
あるいはやり残したことがあるからでしょう。
そうした、悲しく寂しい状況を引き起こす死を避けたいということであって、死そのものがかなしいとかさびしいとか言うことでもないのかもしれません、
いずれにしろ、死はいつか必ず誰にも起こることですから、こわがることもありません。
ところが、なぜか生死に関する書籍などを読んでいると、ほとんどの人が「こわい」ということを問題にしています。
これは、私にはよくわからない心境です。
なぜ、死がこわいのか。
死の先に何があるかわからないからでしょうか。
しかし、先に何があるかわからないことが「こわい」のであれば、人生は常に「こわい」はずです。
「地獄」に陥るのがこわいのでしょうか。
だとしたら天国にいけるように生きればいいだけの話です。
「死がこわい」ということの意味がよくわかりません。
この挽歌にコメントを投稿したり、私にメールをくださる方で、伴侶を失った方の何人かは、むしろ死を楽しみにしています。
というか、死の先で、また伴侶に会えることを楽しみにしています。
会えるかどうかは確実ではないでしょうが、会える可能性はゼロでもないでしょう。
だから、楽しみにすることは合理的です。
会えるかどうか、考えただけでもわくわくします。
「死はこわいものなのか」
前からずっと気になっていたことなので、ちょっと書いてみました。
必ず死はやってきます。
人生の最後が、そんな「こわいこと」であるはずがありません。
なぜそんな考えが広まってしまっているのでしょうか。
みなさんは、死がこわいのでしょうか。
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コメント
佐藤様 こんにちは
最近は心の中が、生きているという思いで充満し、満足しております。
挽歌のお蔭、妻のお蔭、霞のお蔭さん、仕事と妻のことを考えて24時間が過ぎ去っていきます。
ありがたいことです
生きがいは感じているのですが、死をこわいとは、一瞬たりとも思うことはありません
それよりも、もしかしたら「死」を望んでいるのではと考えることが多くなりました。
私と佐藤さんだけではないと思いますが、この地球上の60億人の人々の中から
たった一人の伴侶に巡り合え、多くの一致点が重なっていた二人
その人に出逢え、共に暮らせたことは、やはり「縁の人」でした。
もちろん外国の人と、縁で繋がるお二人さんも大勢おられます。
この狭い日本で縁を結べた二人は、もしかすれば輪廻の縁かもしれません
私は妻と前世でも夫婦だったと信じており、佐藤さんご夫婦もそうだったと確信しております。
佐藤さんと奥様のことは、この挽歌が証明していますから
そんな二人が離れ離れになった時、逝ってしまった人の世界に行きたいと思うのは至極、自然の心ですね
死は最愛の二人を近づけてくれます
私は今、死ぬことが最高の幸せなのかもしれません
死に対し、ひとつだけ寂しい思いもあるのですが、それは友や子供たちと語れなくなることです
しかし、友や子供たちも何時の日か、私たち夫婦と同じところに来ることは100%ですから
再会は出来るかどうかは、逝ってみないとなんとも言えませんけれど・・・
そこは我慢しなくてはなりませんね
つまらないことを書いてしまいました。 申し訳ありません
投稿: 鳥取太郎 | 2014/06/21 17:53