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2014/06/20

■節子への挽歌2471:フォワードな生き方

節子
昨夜、ワールドカップの報道を見ていて、ふと「私も最近はフォワードしてないな」と思いました。
ここで言う「フォワード」は、前を向いて考えるということなのですが。

昔、挽歌にも「フォワード」ということを書いたような気がして、調べてみました。
一昨年、「フォワードに生きる」という挽歌を書いていました。

私が、この言葉を自分の活動につなげて使い出したのは、自殺のない社会づくりネットワークを立ち上げた時です。
自殺を思いとどまり、再出発しようとしている人たちを「フォワード」と呼ぼうと思ったのです。
さらにその意味を広げて、「ちょっとつまづいてしまったけれど、それを乗り越えて、前に向かって進みたいと思っている人」と捉え、毎月、湯島でフォワードカフェも始めました。
私もまた、「フォワードな生き方」に変えていこうという思いも重ねていました。
そのあたりのことを、一昨年の挽歌で書いているのを、改めて読み直しました。
その挽歌の最後には、
「節子がいなくなっても、私は素直に生きられるようになっているような気がします」
と書いてありました。

いまはどうでしょうか。
素直な生き方をしている点では、そうなのですが、最近はあんまり「フォワード」ではないような気がします。
正確に言えば、どちらが前かわからなくなってきている。
そんな気がするのです。
いろんなことに取り組んではいるのですが、どこかに「冷めてしまった自分」を感じるようになってきています。
もしかしたら、これが「老いる」ということかもしれません。
それは、しかし、私の生き方ではありません。
フォワードな生き方を思い出さねばいけません。

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