■節子への挽歌2452:自由の極致は隷従、隷従の極致は自由
節子
しばらく音信が途絶えていた友人から電話やメールがありました。
最近、久しぶりの電話やメールは、ほとんどがあんまり嬉しい話ではありませんが、昨日のものはいずれもそうした類の話ではありませんでした。
それに久しぶりの友人の、元気そうな声を聞く事は、それだけでもうれしいものです。
もう10年以上も前になりますが、ある友人が、これからは付き合う人を少しずつ絞り込んでいくと書いてきたことがあります。
そのさらに数年前には、私が誰とでも付き合うことを注意されたことがあります。
いずれの場合も、私には理解できない話でした。
他者との付き合いは、私の意思だけで、どうにかなるわけではないというのが私の理解だったからです。
来る人はこばまず、去る人は追わない、というのが私のルールです。
しかし、人は付き合う人によって、世界が大きく変わるだろうとも思います。
もし私が節子に会っていなかったら、私の人生は全く違ったものになっていたでしょう。
同じように、友人知人を意図的に選んでいたら、これまた世界は変わっていたはずです。
しかし、一度の人生であれば、どれが良かったかどうかなど比較しても意味がありません。たった一つの人生を、最良だったと思うほかありません。
自然の成り行くままに生きることは、自然への隷従なのか。
時評に少し書きましたが、昨日、500年前の若者が書いた「自発的隷従論」という本を読みました。
時評編で考えると、これは革命の書でもありますが、挽歌編で考えると、これは自由の書かもしれません。
私は現世的には自由に生きており、多くの人たちの今の生き方にはまったく馴染めませんが、もしかしたら私自身もまた、自発的な隷従生活を送っているのかもしれません。
自由の極致は隷従、隷従の極致は自由、かもしれません。
書こうと思っていた事が、途中で全く変わってしまいました。
友だちの話を書くつもりだったのですが、昨日読んだ本が強烈過ぎました。
2つの話の続きは稿を改めて。
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