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2014/06/06

■常識と良識

私は、かなり「常識」が欠落している人間です。
そのことに気づいたのは、この数年ですが、あまりにも「常識」が欠落しているので、逆にまわりには気づかれないようです。
付き合いの深い娘たちは、かなり前から、私の常識のなさを口にしていましたが、やはり娘たちが正しかったようです。

今日、ビジネス絡みの話をしていて、相手の人に「私は常識が欠落しているから」と発言したら、相手の人がそうは思えないと応えました。
以前、その人とビジネス上のトラブルを起こした人が、私が仲介してくれるのであれば話し合うと言ってきたことがあります。
私は双方を知っていたので、仲介はしないが話し合いの場に同席はすると言って、話し合いが実現し、問題も解決しました。
その時に、相手の人が、「佐藤さんはしっかりした常識ある人だからそれぞれの言い分を聞いてほしい」というようなことを言ったのだそうです。
そういえば、そんなことを言われた気もします。
そのことを言いだして、「私の常識のなさ」を彼は否定したのです。

しかし、繰り返しますが、私は常識がありません。
そしてそれは決して、謙遜しているわけではありません。
ただ事実なのです。
それに、常識があればいいというわけでもありません。
むしろ私にとっては、「常識」という言葉は、あんまりいい意味を持っていないのです。
そもそもこのことからして、私は「常識」がないのです。

アントニオ・グラムシは、国民みんなが持つ共通した感覚や判断基準を「常識(コモンセンス)」と言いました。
それは、「地域的ないし国民的な伝統にしばしば深く根ざした文化的社会化の長期的な慣行の中から形成される」ものです。
そうした常識に対して批判的に対峙し、形成される感覚や判断基準を「良識(グッドセンス)」としました。
例えば、原発再稼働や尖閣は日本の固有領土は常識であり、反原発や国家固有の領土などないは良識です。
常識と良識は違うのです。
私が大切にしているのは、良識です。
最近の記事につなげて言えば、隷従者は常識の民です。

しかし、グラムシの定義では、常識のない良識はありません。
常識があればこそ、良識が育つのです。
常識のない良識は、いささか危うさがあります。
独りよがりの「良識」は、「常識」よりも悪性かもしれません。
だから、私ももう少し「常識」を持たねばいけません。
妻がいた時には、妻がその常識をある程度、教えてくれましたが、最近は誰も教えてくれないので、ますます常識がないと娘から叱られています。
このブログを読んでくださっている方は、私の独りよがりの良識に辟易することもあるでしょう。
そうならないように、常識を身につけなければいけません。
しかし、その方法がなかなかわからない。
実に困ったものです。

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