■節子への挽歌2487:平安を与えてくれる祈り
私の一日は、節子への祈りによって始まります。
これは、節子がいなくなってから始まったことですが、祈りを受け止めてくれるのは、わが家の大日如来です。
娘が手づくりし、家族3人で開眼し、お世話になっているお寺で魂を入れてもらった大日如来です。
昨日、時評編にこうした書き出しで、少し「祈り」のことを書きました。
最近は「祈る」ことが多くなりました。
節子の胃がんが再発した後、私たちは毎日寝る前に一緒に祈りました。
しかし、今から思えば、祈りの内容は違っていたのかもしれません。
私の祈りは、奇跡への祈りであり、節子の祈りは感謝の祈りだったような気がします。
その違いが、最近少しわかってきました。
節子がいなくなってから、私はしばらく放心していたように思います。
仏壇や献花台に手を合わせていましたが、何を祈っていたのか、あまり思い出せません。
おそらく旅立った節子の平安を祈っていたのでしょうが、実は残された私の救いを願っていたのかもしれません。
祈りは、願いにもつながっています。
放心した私の願いは、決してかなえられるものではありません。
しかし、それでも祈りによって、私自身の平安は保たれた気がします。
祈りは、自らを、自らを超えた大きな存在(それを神と言ってもいいでしょうが)にゆだねるからです。
小さな私欲をわずらう自分はいなくなります。
いま思えば、節子もまたそうだったのです。
祈りは、人に平安を与えてくれるのです。
まだまだ私は、そうした「祈り」の境地には達せられません。
節子の祈りを思い出しながら、少しずつそうした祈りに近づければと思います。
今朝の祈りは、いつもとは少し違いました。
でもまぁ、ここに書いたようなことが気になって、いつもよりも早く起きてしまったので、とても眠いのですが。
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コメント
佐藤様
いつも拝見しております。
佐藤さんの強い意志と、反面 時々左右に揺れる不安定な心模様が伝わってきます。
死を恐れなくなったことが幸せなのかは、判断に迷うところですね
私し事なのですが、もし妻が生きていたなら
私は今も勝手気ままな人生を送り続けていたことは間違いありません
常識のある妻にすれば、口では小言を言わずに心から電波を送ってくれていたことを
若いころから感じてはおりました。
その電波を受け取りながらも、受け取ってない振りで、相変わらずの我が儘人間を
演じておりました。
私が常識人間になることが、妻の唯一の「祈り」だったのかもしれません
伴侶の祈りがあったればこそ、私は平穏に暮らしてこれたのです。
まさに佐藤さんのおっしゃるとおり、ズバリ的中しております。
私にとって神は妻であり、妻からの伝言は神からのお言葉だと思っております。
今更理解できたなんて、だからどうした? と皆からは言われそうですが・・・
投稿: 鳥取太郎 | 2014/06/30 17:59