■2つの暴言に思うこと
都議会議員のセクハラ野次と石原大臣の金目発言は、いずれも発言者が謝罪することで一つの節目を越えました。
謝罪は最低限当然なのに、ここまで来るまでに数日経っていること自体に、今の社会の壊れた実態を感じます。
この問題に関しては、ほぼ同じ論調がマスコミにあふれています。
私の感想は、それとは少しだけ違います。
暴言や失言には、事の実相があらわれるでしょう。
つまり、その背後にこそ、問題がある。
その実態こそを問題にしてほしいと思うのです。
暴言はひとつの現われでしかありません。
そんな発言が出なくても、きちんと取材していたら、そういう実態が見えるはずで、その実態こそを問題にしてほしいと思うのです。
暴言や失言がなければ、問題にできないことにこそ、問題を感じます。
暴言や失言を問題にするのではなく、そこから見えてきた実態や実状を問題にしなければいけません。
それこそがジャーナリズムだろうと私は思います。
もうひとつ感ずることがあります。
お2人の言動は、論外で、悲しくも寂しいものです。
しかし、私たちのなかにも、そういう思いはまったくないのか。
正直に言えば、私は、この2つの発言と同じ思いが全くないと、胸をはっては言えません。
相手が女性であろうと男性であろうと結婚はしてほしいと思います。
住民に犠牲を強いるのであれば、それを補償する十分な金額を提示するべきだと思います。
ですから、お2人の発言(都議会の野次はそれ以上の許しがたいものもありますが)は私にはさほど意外なものではありません。
念のために言えば、だからいいという話ではありません。
状況を考えると、その発言の意図や背景に卑劣なものも感じます。
それは、議員を辞めるほどの暴言だとも思います。
しかし、その一方で、彼らだけを責めていいのだろうかと思うのです。
少なくとも私としては、まずは自分の中にわずかに残っている、そうした思いを問い質したい。
そう思います。
お金では解決できないほどの大きなものを失った被災地の住民たちの怒りへの思い。
結婚は、それぞれの個人にとっての問題であるという認識。
それが、私にはまだまだ欠けていることを、反省しながら、お2人の謝罪を聞いていました。
もっとも、お2人とも、私には「謝罪」しているとは感じられませんでしたが。
でも彼らを非難するだけならば、私自身も彼らとそう変わらないなとも思います。
滲み込んだ「常識」を「良識」に変えるのは、実に至難です。
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