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2014/06/06

■節子への挽歌2456:ルクレティウスの疑問

「なぜ、たっぷり食べた客のように、人生から立ち去らないのか」
ある本で知った、ティトゥス・ルクレティウスの言葉です。
この言葉に出会ったのは2か月ほど前です。
以来、頭から離れません。

ルクレティウスは古代ローマの哲学者です。
15世紀になって、その著書が発見されて話題になった人ですが、私の記憶にあるのは次の言葉です。
「感覚にとって真なりと思われたものは、すなわち真実である」
この言葉は、私の信条のひとつにもなっています。

そのルクレティウスが、「なぜ、たっぷり食べた客のように、人生から立ち去らないのか」と言ったということは知りませんでした。
レストランを出る時のように、人生から立ち去るのがよいというわけです。
残っていても、もう食べられないのですから。
でも、ほんとうにそうでしょうか。
この第2のルクレティウスの言葉は、私の感覚にはどうしても合いません。

たっぷり食べたかどうかは、その人でなければわからないでしょう。
だからルクレティウスは、謙虚にこう思うべきでした。
「人生から立ち去らないのは、まだ食べたりないからだ」。
そして、食べたりないのに人生から立ち去らなければいけなかった人への思いも持ってほしかったです。

節子は、まだたっぷり食べてはいませんでした。
食べ残したことがたくさんあったことは間違いありません。
しかし、たっぷりではないけれど、良い料理を楽しむこともできます。

少し早かったですが、節子も私も、それなりに「いい人生」でした。
節子が出て行ったのは、「たっぷり」食べたからではありません。
私がまだ出て行かないのも、「食べたりない」からではありません。
ルクレティウスの質問にはこう答えたいです。
「それは人生が、あまりにすばらしいからだ」と。

その素晴らしい人生から、節子は出ていかされ、私は残されてしまいました。
ルクレティウスがもし、私のような立場に置かれたら、何というでしょうか。
人生とレストランを一緒にしてほしくはありません。

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妻への挽歌13」カテゴリの記事

コメント

佐藤様  こんばんは

本当に佐藤さんのおっしゃる通りですね

哲学者や科学者は、時として人の気持ちを逆なでするような言葉を表現されることがあります。
人の心は人の数だけあり、それぞれ違うものです。

ましてや亡き人に対しての言葉を
人の数にプラスして夫婦の人生模様の数を掛け合わせると、通り一遍の言葉で表すことなど難しいのではないでしょうか
哲学者も科学者も、そして宗教家も所詮は人の子なんですね

自らが経験したことのない事柄までも、全世界の人や社会に平等公平に伝えきることは至難の業
このような立派な方たちであっても、人それぞれの思いや、まして夫婦の生き様など言葉で表すのは無理があるでしょうね

まさに、佐藤さんの言葉、「人生とレストランを一緒にしてほしくありません」こそ哲学ではないでしょうか
私はそう感じました。


投稿: 鳥取太郎 | 2014/06/06 23:04

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神仏を信じてはいないけれども、けっこうきちんと毎日の生活を送っている現代人たち。 [続きを読む]

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