■節子への挽歌2461:今日もまた節子の話をする機会がありました
節子
今日また、節子のことを話す機会がありました。
今週2回目です。
その人も伴侶をなくされたのですが、私が妻を見送ったことを知りませんでした。
それはそうでしょう。
付き合いをはじめてまだ半年くらいですから。
しかし、なぜか気が合ったというか、その方は毎月のように湯島に来てくれます。
今日はコーヒーを淹れている時の雑談の中で、ふと胃がんで妻を亡くされた方の話が出たのです。
その方はお医者さんだったそうですが、お医者さんであれば、なおのこと辛かったことでしょう。
そこから私の話になり、雑談が雑談でなくなってしまいました。
さらにいろんな話に広がってしまったのです。
人は見えないけれど、みんないろんなことを背負っています。
まさか今日はそんな話になるとは思ってもいませんでした。
一昨日もそうですが、話していて、やはりまぶたが重くなるのを感じました。
もうちょっとで、涙が出るところでした。
しかし、不思議なことに、気分的にはなにか心洗われるような気がしました。
やはり時々話さなければいけないのかもしれません。
同じ立場の人たちが話し合う効用はあるようです。
書くよりも話すほうが、どうも鎮魂効果は大きいようです。
気分が少し軽くなっている気がします。
| 固定リンク
「妻への挽歌13」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌2600:恩送りと迷惑送り(2014.10.14)
- ■節子への挽歌2599:老いることや死んでいくことの意味(2014.10.13)
- ■節子への挽歌2598:「苦悩のない状態とは死んだ状態」(2014.10.12)
- ■節子への挽歌2597:不老不死(2014.10.11)
コメント