■節子への挽歌2455:裏切りへの感謝
節子
関東も梅雨に入りました。
今日は早朝より湯島に来ています。
いささか悩ましい問題に関するミーティングです。
人はどこまで人を信ずることができるのか、まあそんな気づきを得るトラブルにこの数年付き合っています。
一時は、私自身がおかしくなりそうでしたので、少し距離を置くようにしていましたが、そのままというわけにもいきません。
それで今朝、ミーティングを持ちました。
幸いに、いい方向に向いて動き出しそうです。
信頼すれば良い方向に動き出すという信念を維持するのは、けっこう大変です。
裏切るよりも、裏切られたほうがいい、ということを知ったのは、テレビドラマ金八先生の主題歌だった「贈る言葉」からです。
これまでの人生の中で、それは実証されてきました。
裏切られたことは多く、つい最近も同じ人から3回目の裏切りを受けました。
裏切られることが多いと慣れてくるものです。
しかし、裏切らざるを得ない人への同情よりも、まだ腹立たしさが勝ってしまうのは、我ながら情けないものです。
私にとって、一番の裏切りは、節子でした。
私よりも先に逝ってしまったからです。
時々、朝、お線香をあげながら、節子に恨み言を呟くことがありません。
先に逝ってしまうとは許せない、と。
しかし、視点を変えれば、節子にとっての最大の裏切りは私でしょう。
後に残ってしまったのですから。
まだ現世で何をしているの、そろそろこっちに来たらと、節子は反論しているかもしれません。
裏切ることと裏切られることは、コインの裏表かもしれません。
裏切りへの腹立ちは、相手を信頼しているから起こることです。
ですから「裏切りは信頼の証」かもしれません。
裏切った相手をまた信頼するのは論理的にはおかしいのですが、現実はよくあることです。
裏切られてもなお信頼する、というのが、信頼するということかもしれません。
雨がひどくなってきました。
そのせいから約束の人がなかなかやってきません。
人生は思うようにはいかないものです。
だから人は人を裏切ってしまうのかもしれません。
もう少し待ってみましょう。
もしかしたら、その人は私に挽歌を書く時間を与えるために遅れているのかもしれません。
裏切りも、そういうように考えれば、感謝しなければいけないことかもしれません。
いささか気分的に疲れていて、また意味不明なことを書いてしまったかもしれません。
それにしても遅いですね。
腹立ちの内容に、コーヒーでも淹れましょう。
追記(2014年6月6日午後2時半)
実は約束の時間を間違えていたのは私でした。
1時間勘違いしていました。
来客は正確にやってきて、正確に帰りました。
すみません。まあ人間はこうやって、勘違いして、約束を破られたと思うことも少なくないのでしょう。
実に勝手な言い訳ですが。はい。
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