■節子への挽歌2482:妻に先立たれた男性の生きづらさ
節子
ある大学院生が、病気などが原因で髪を失った女性たちは、いかなる「生きづらさ」を抱え、それに向き合い、対処しながら生きているのか、について、経験者たちに聞き取り調査した話を、好井裕明さんが本(「違和感から始まる社会学」光文社新書)に書いています。
好井さんは、その話に関連して、私たちが無意識に持っている「豊かな美しい髪は、女性の美しさとは切り離し得ないものだという常識的な信奉」に言及します。
さらにテレビコマーシャルなどによって、「美しい髪をもつことは女性にとって大事」とでもいえる「常識」が社会的につくられていることも指摘しています。
それを読んで、昔の話を思い出しました。
節子と結婚した頃に、お互いが知っている人で、とても髪がきれいな若い女性がいました。
私は、その髪に触りたいと思い、節子に触らせてもらいたいと本人に頼んでみようかと相談しました。
そんなことをしたら、変態者と思われるし、彼女の付き合っている人(その人も私たちの知人でした)に怒られるよと節子は笑い出しました。
でもまあ、その時にはそう思ったのだから仕方がありません。
もちろん実現はしませんでした。
私の母は乳がんで、片方の乳房を失いました。
以来、ほとんど温泉に行っても、みんなとは入浴しませんでした。
私には、それへの違和感がありましたが、乳房を失うことから生ずる「生きづらさ」への配慮がありませんでした。
さらに、母が伴侶を見送った後の母への配慮も、いまにして思えば、まったく不十分でした。
私が、それに気づいたのは、自分が同じ体験をした時、つまり節子に先立たれた時でした。
人間の愚かさを呪いたくなります。
好井さんは、私たちが「あたりまえ」だと思っていることで、傷ついている人たちがいるのだということを教えてくれています。
私も、たくさんの人たちを傷つけていることを反省しなければいけません。
娘からは、よく注意されていますが、私の物言いはいささかストレートすぎるのです。
いまもそれが一因になって、2つのトラブルに直面しています。
困ったものです。
私が加害者になっていることも多いでしょうが、被害者になることもあります。
たとえば、「妻に先立たれた男性」に関する「あたりまえ」の「常識」です。
「妻に先立たれた男性」が、どれほど「生きづらい」ことか。
やはりなかなかわかってはもらえません。
これは、しかし、甘えと言うべきでしょう。
生きづらさを生きることも、また人生なのですから。
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