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2014/06/11

■オメラスとヘイルシャムの話その5

宮沢賢治とは違う意味で、ことの本質を感じていたのは、トミーです。
トミーは、ヘイルシャムで育てられた「できのわるい」子どものひとりです。
癇癪を起こしては問題ばかり起こしていました。
主人公のキャシーと、エミリー先生の話を訊きに行くのですが、エミリー先生がいなくなった後、2人はこんな会話をします。

「ヘールシャムで、あなたがああいうふうに癇癪を起こしたでしょ? 当時は、なんで、と思ってた。どうしてあんなふうになるのかわからなくて。でもね、いまふと思ったの。ほんの思いつきだけど…。あの頃、あなたがあんなに猛り狂ったのは、ひょっとして、心の奥底でもう知ってたんじゃないかと思って…」
  トミ-はしばらく考えていて、首を横に振りました。「違うぜ、キャス。違うな。おれがばかだってだけの話だ。昔からそうさ」でも、しばらくしてちょっと笑い、「だが、面白い考えだ」と言いました。「もしかしたら、そうかも。そうか、心のどこかで、おれはもう知ってたんだ。君らの誰も知らなかったことをな」
小説の登場人物のことを詮索するのもおかしな話ですが、キャシーの考えはとても納得できます。
トミーは知っていた、いや、感じていたのです。

最近、子どもたちの世界がおかしくなっているような気がしますが、もしかしたらそれは子どもたちが地下室の子どもの存在を感じているからではないかという気がずっとしています。
あるいは、ヘイルシャムの外の世界を感じているといってもいいかもしれません。
そう考えると、ここでも「問題の立て方」がまったく違ってくるはずです。

人の心は、時空間を超えてつながっています。
言語や文字や知識を通して、人はつながっているわけではありません。
地下室の子どもの声は、聞えているのです。
しかし、聞きたくないために聞こえないのかもしれません。
新しい知識を学ぶことは、ある意味では現有する知識を捨てることでもあります。
知ることは、実は知らないことを知ることなのですが、いまの教育観や学校制度はそうなっていないように思います。
疑うための知識ではなく、疑うことをやめることの知識が横行しています。
学校で学ばなかったことはすべて切り捨てられます。
疑うことのない人間を創りあげていくのが、もし教育であるとすれば、教育ではなく(隷従への)飼育というべきでしょう。
知識は力にもなりますが、力を削ぐこともできるのです。

トミーの癇癪に話を戻します。
大きな変動の前には予兆があります。
昨今の子どもたちの世界に、何かの予兆が含まれているのではないか。
そんな気がしてなりません。

いささかテーマから逸脱しすぎたかもしれませんが、子どもたちの世界は、時空間を超えているような気がします。
私自身がそうだったような気がしますので。

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