■言葉には敏感でありたい
私たちの思考は、基本的に「言葉」で行われます。
ある意味では、「言葉の世界」に私たちは生きています。
ある新しい言葉との出会いが世界を広げることもあれば、言葉に対する固定観念が邪魔をして現実が見えなくなってしまうこともあります。
しかし、にもかかわらず、私たちは「言葉」にあまり敏感ではないような気がします。
先日、医療に関する話をしていて、相手が「介護予防」という言葉を使いました。
とても抵抗がありました。
「介護の予防?」と思ったのです。
それで思わず、「介護予防」ってなんですか、おかしな言葉ですね、と言ってしまいました。
ところが、その数日後、介護関係の資料を読んでいて、「介護予防」という文字が出ていた二に、何の違和感も持たずに、読み過ごしている自分に気づきました。
さらにその数日後、私自身が「介護予防」という言葉を使っているのに気づきました。
私も、以前から「介護予防」という言葉を受けいれていたわけです。
しかし、考えてみるとおかしな言葉です。
予防介護ならわかりますが、介護を予防するとはどういうことでしょうか。
言葉で失敗したことがあります。
地域包括支援センターの新しい役割をテーマにした委員会の委員にさせてもらったことがあります。
その初顔合わせの時に、事務局の人が「介入」という言葉を使ったのです。
福祉の世界で「介入?」、あまりに権力的で福祉の思想に合わないのではないかと、そう思ってその言葉にかみついてしまいました。
事務局の人やほかの委員は、私が何を言っているのか、理解できなかったでしょう。
私の主張を聞いて、ある大学の教授が、インターベンションの訳語でよく使われるでしょうと私をなだめてくれました。
そういえば、自殺防止の活動を話し合っている時に、事後介入とか事前介入とか、「介入」という言葉を私自身使っていたことを思い出しました。
投身自殺をとめるために「介入」という言葉が違和感なく私の頭に入っていたのです。
いささか気色ばんでしまった自分が恥ずかしくなりました。
事務局には悪いことをしたと反省しました。
そのせいかどうかはわかりませんが、その委員会は2度と声をかけてもらえませんでした。
しかし、やはり「介護予防」にしても「介入」にしても、考えてみるとやはりおかしいような気がします。
私たちはもっと「言葉」(表現)に敏感でなければいけないのではないか。
都議会議員のヤジや政治家の暴言が問題になっていますが、決して他人事ではありません。
私ももっと言葉に敏感でありたいと改めて思っています。
このブログも、かなり粗雑な言葉づかいをしていることも反省しなければいけません。
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