■節子への挽歌2472:私自身の老いを生きる
節子
前回の記事で、「老い」と言う言葉を使ったので、「老い」について書きます。
というのも、今朝、読み上げた「高齢者が働くということ」という本の中で、著者のケイトリン・リンチは「アメリカ人は老いを一種の病気と見なしている」と書いていたのを思い出したからです。
アメリカ人に限らず、最近の日本人もどうもそう考え出しているような気がしますが、まさに「健康産業」創出のためには、そういう発想が必要なのでしょう。
老いを病気などと考えていたら、豊かな老いは体験できないでしょう。
その本でも語られていますが、「老いとは文化的に構築された概念」です。
そもそも65歳からは支援される存在としての高齢者などと概念化する発想が間違っています、
人は、歳相応に振る舞うべきだという「常識」がありますが、そんな社会的圧力は撥ね返さなければいけません。
先日、ある集まりで、参加者の一人が「佐藤さんのようなご隠居さんのような人」と言われた時には、いささか不快でしたが、私には隠居は向きません。
死ぬまで仕事はしつづけるでしょう。
娘は。歳をとったら少しは身奇麗にしないとお説教しますが、そんなつもりもありません。
しかし、実際には歳相応の生き方になっていくものです。
もちろん、「健康のために何かやっていますか」などという愚問には胸を張って、何もやっていませんと言う自信はあります。
何もやっていないからです。
アンチ・エイジングなどという、自然の摂理に反することもやっていません。
ただただ素直に生き、自然に老化していくことが、私にとっての「健康」なのです。
節子という伴侶もいないので、迷惑をかけることもなくなりました。
ますますわがままに、私自身の老いを生きたいと思います。
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