■節子への挽歌2459:「がんでよかったね、交通事故で突然に死ぬことだってあるんだから」
節子
最近知り合った友人と話していたら、その人も妻を胃がんで亡くされたことを知りました。
話していくと、亡くなったのが2007年でした。
病気は進行性胃がん、発見から旅立ちまで4年ちょっとだったそうです。
時期も病気も、節子とほぼ同じです。
しかし違う点が一つありました。
その人の場合は、手術をしなかったそうです。
彼は、奥さんを死なせはしないと決めて全力を尽くしたようです。
私は「治る」と信じましたが、彼はそうではなく、「死なせまい」と決意したのです。
私の間違いは、「治る」とか「治す」とかいうところから抜けられなかったことです。
今にして思えば、それが大きな悔いですが、彼には悔いはないでしょう。
私には、彼ほどの決断はできませんでした。
そして奥さんは彼の腕の中で息を引き取ったそうです。
話していて、共通するところがとてもたくさんあることに気づきました。
本題も忘れて、お互いに心を開き合いました。
お互いに、伴侶から学んだことはたくさんありました。
彼らを救ったのは、ある人との出会いでした。
「がんでよかったね、交通事故で突然に死ぬことだってあるんだから」。
そう言われたのだそうです。
私なら素直に聞けたかどうか自信はありません。
しかし友人たちはその言葉の真意を素直に受け入れたようです。
そして奥さんは残された人生を、とても意義あるものにしたようです。
死を実感することが幸せなのかどうかはわかりませんが、少なくとも残されるものにとっては、突然でないほうがいいことは言うまでもないでしょう。
私も彼も、4年ほどの妻との生活をもらえたのですから。
その4年の生活を、無駄にしては、それこそ、申し訳がたちません。
4年間で学んだことはたくさんあります。
そのことに、改めて感謝しました。
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コメント
佐藤様 こんばんは
相変わりませず、心に響く言葉を読ませていただいております。感謝です。
私ごとですが、妻の癌が発見され三週間後には旅立ってしまいました。
話せたのは一週間たらずでしたが、今は短かすぎたとは思ってはおりません
殆んど交通事故で亡くなったようなものですから
しかし、癌が発見され四年間もの長きにわたり妻の面倒を見るという佐藤様のように、私には出来なかったかもしれません
そのように、妻も承知していたことは明白です。
妻は私に長期の迷惑などかけたくないと、三週間という短き生涯を選んでくれたのだと信じております。
夫婦という繋がりは、親子の繋がりとは少し違うのではと、私は考えており
縁のある夫婦に別離という現象は無いのだと思っております。妻も同じ考えであったとすればうれしい限りです。
妻が短い命の期限を選んだことと、最後の看取りを子供たちに任せた私の心は、同じだったのではと信じます。
看取りよりも妻が主治医に言った言葉、「先生 家に帰らせて・・お願いします」
これが妻の本意だと信じ、24時間という最後通告を受けた時、私は一秒でも早く家に連れて帰ってやりたい一心で
生涯を全うし帰ってきた妻を、ゆっくりと寝かせてあげる準備をすることにしました。
何時も妻が敷いてくれていたように、ふたつの布団をくっつけて敷き、愛犬と一晩中待ちました。
その間、悲しくもなく涙が出ることもありませんでした。ただ、とてつもなく大きな後悔の念に押しつぶされ、体中の血が無くなったような感覚が続きました。
反面、愛犬と自らに「明日はお母さんが帰ってくるから よかったね」そんな気持ちもあったことは事実です。
世の中に誕生してから作りあげたものは何時かは壊れてしまいます。家族も友人も仕事仲間も・・・
しかし、「縁ある」夫婦は、この世で作られるものではなく輪廻する繋がり、壊れることはないのではというのが、私の思いです。
(つまらないコメントです。 削除して下さって結構です)
投稿: 鳥取太郎 | 2014/06/09 20:44