■節子への挽歌2464:迷惑と遠慮
節子
時評編では少し書きましたが、昨日、湯島で「遠慮と迷惑」をテーマにしたサロンを開催しました。
13人も参加してくれました。
いつものように、多彩なメンバーです。
最初に問題提起してくれた方が、いささか刺激的なお話をされました。
彼女の夫が自死しているのですが、それを最後に語りだしたのです。
それもとても素直に語りだしました。
DVを受けた話までも、
そして彼女がしみじみと言いました。
あまりにも自分は、相手の言動をそのままに受け止めてしまい、そこに込められた意味や示唆を汲み取れなかった、と。
夫婦といえども、相手のことがすべてわかるわけではありませんし、むしろその関係性において、甘えや期待が影響して、見えなくなってしまうおそれがあります。
だから彼女に限らず、言動の真意を汲み取るのは難しいのがふつうでしょう。
人はみんなに迷惑を受けながら生きているとよく言われます。
昨日のサロンでもそういう話が出ましたが、私はそうではなくて、人が生きるとは迷惑や恩恵をかけあうことなのだろうと思います。
これに関しては、また時評編に書こうと思いますが、私と節子の関係がとても気持ちよくいったのは、最初からそれをお互いに意識しあっていたからです。
私の勝手な結婚申し込みや結婚の仕方は、節子の両親には大いなる迷惑でした。
それによって節子の両親と家族は、大変な苦労をしたと思います。
今から思えば、本当に悪いことをしてしまいました。
しかし、結婚して時間が経ってからは、節子の両親も、娘は良い伴侶を選んだと思ってくれたと思います。
それがせめてもの私の恩返しです。
私はどうか、
実のところ、節子と結婚して迷惑を受けたことはありませんでしたが、なんと最後にどんでん返しで、節子が先に逝ってしまうという、とんでもない迷惑を受けました。
しかし、それを上回る大きな恩恵も受けました。
考えてみると、夫婦も迷惑をかけあう関係なのです。
そして私たちが、お互いに悔いのない夫婦でいられたのは、お互いに「遠慮」がなかったからです。
それが、私と節子が一緒に暮らし始める時に、約束したことでした。
遠慮をまったくしなくていい伴侶がいなくなったのは、本当に辛いことです。
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