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2014/06/05

■節子への挽歌2453:出会った人はみんな友

節子
まずは友だちの話からつづけます。
節子と出会ったのが自然の定めだったとしたら、節子に限らず、すべての人との出会いが自然の定めです。
小賢しい自分の好みや打算で、人との交流を選択することは、そうした定めに反します。
それに、付き合いは、どちらか一方の決めることではありません。
当事者の思いを超えたところで成り立っているような気がします。
ですから付き合っているようで、付き合っていない関係も少なくありません。
逆に、付き合っていないようで、付き合っている場合もあるでしょう。
人のつながりは、個人で完結する話ではありません。

この話を進めていくと、以前流行語になった「無縁社会」や「絆」の話につながっていきます。
人はどんなにあがいても、他者とのつながりは切れませんし、どんなに孤立しているように見えても、その気になれば、他者とのつながりは見えてくるでしょう。
そのつながりの糸を手繰り寄せれば、孤立ではないことがわかるでしょう。
人はだれもが、人との縁によって生きているのです。
孤立は感違いでしかありません。

前項に引用した「自発的隷従論」にこんな文章があります。
「もう隷従はしないと決意せよ。するとあなたがたは自由の身だ」
この文章をもじって、こうも言えるでしょう。
「もう孤立はしないと決意せよ。するとあなたがたは孤立していない」
隷従も孤立も、自分で決めているだけの話なのです。

しかし、友と付き合うのは、それなりに労力が必要であり、煩わしいのも事実です。
だからこそ、人は歳をとるにつれて、交友の範囲を狭めていく。
その上、高齢になるにつれて、同世代の友人知人の訃報も増えてくる。
かといって、若い世代の友人知人がそう簡単に増えるわけでもありません。
ですから、人は自然に友人知人が減っていくのは、これまた自然の摂理です。
そうであれば、あえて自分から友人知人を絞ることもないでしょう。
それに、煩わしくない付き合い方もあるのです。

15年ほど前に、私に「付き合う友をもっと選べ」と助言してくれた友人は、全く別の意味で言ってくれたのですが、私にはやはり小賢しく聞こえてしまいました。
ですから、むしろその人との付き合いが弱くなってしまい、いまは交流がありません。
しかし、付き合いが途絶えたとは思っていません。
また連絡があるかもしれませんし、どこかで会えるかもしれません。
今もなお彼は私の敬愛する友人の1人です。

私の友人知人の何人かは、すでに鬼籍に入っています。
節子もそうですが、彼岸にいる友人知人が増えてきています。
自分も間もなく、彼岸に行く歳になったせいか、彼岸にいようが現世にいようが、あんまり違いがないような気もしています。
もし節子が今も現世にいたら、そうは思わないかもしれませんが、私には現世と彼岸はつながっているのです。
そういう立場からすると、友は多いほどいい。
たとえ、絶交されても、友は友です。

また何か違う話になってしまったような気もしますが。

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妻への挽歌13」カテゴリの記事

コメント

佐藤様  こんにちは

今日は当方も梅雨入り宣言がでました。 そのとおりに一日中雨でした。
この「出会った人はみんな友」

まさしく家内の生き様そのままです。私にはできませんでしたが・・
佐藤さんも、「・・・・・みんな友」「絶交されても友は友」、このように生きてこられたのですね
羨ましくもあり尊敬できることでもあります

妻の他人様への気配りを、ビデオのように思い出すことが出来ました。
わたしは、そのような妻を宇宙人のような目で見ていたのかもしれません
恥ずかしいことです。

ありがとうございました。

投稿: 鳥取太郎 | 2014/06/05 18:28

いつもありがとうございます。
完投も梅雨入りのようです。

太郎さん
私もみんなから宇宙人だといわれています。
もしかしたら魚座からきたのかもしれないと、私も時々思います。
でもまあ、地球人も宇宙人の1種族ですから、結局はみんな友だちです。

ちなみに、みんな友だちだと思うと、実はとても生きやすいのです。
私の場合は、ただそれだけなのです。
はい。

投稿: 佐藤修 | 2014/06/06 12:41

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