■節子への挽歌2454:私たちは死という「主人」に隷属している、のか?
つづいて、自由の極致は隷従、隷従の極致は自由という話です。
本来、この話題は時評編に相応しいのですが、まあ引用した手前、挽歌編でも書いてしまいます。
と言っても、今回は引用だけです。
私の意見は、引用文の向こう側に感じてもらえればと思います。
いつか書こうとは思いますが、あまりに衝撃的だったので、いまはまだ整理できずにいます。
この論文の解説をフランス哲学の研究者の西谷修さんが書いています。
そこにイギリス人作家のカズオ・イシグロさんの小説「わたしを離さないで」が紹介されています。
この作品は映画にもなっているそうですが、私は知りませんでした。
西谷さんの紹介によれば、
「この作品は、移植用臓器を供給するために育てられたクローンたちが、自らの運命の枠内で定められた短い生をまっとうしてゆくという物語だ。彼らは成長するとまず「介護人」にそしてやがては「提供者」となり、何回かの「提供」を経てそれぞれの生を「まっとう」してゆく。そこにはこの理不尽な運命に対する抗議や抵抗はほとんどなく、それが自分たちの自明の生の形であるとでもいうかのように、彼らは従容として枠づけられた階梯をたどり、成長しそして短い生を終えてゆく。彼らは、自分たちの生がいわば他者たちの道具の地位に限定されており、その枠内でしか生きられないという条件をそのまま受け入れ、その限界のこちら側に留まって生を終える。その気があれば越えられるとも思われるこの不条理で理不尽な限界が、魔法の結界ででもあるかのように、彼らはそれを越え出ようとはしない」という話です。
西谷さんは続けます。
人は限られた期間の生を生きる。みなさんはどう思われますか?
そして誰も死を免れることはできない。
まさにその意味ではクローンもまったく「人間と同じ」なのだ。
言い換えれば、我々は逃れられない死という「主人」に隷属しており、死の課す結界を受け入れるかぎりで、それぞれに充実した生をまっとうしてゆくことができるというわけだ。
トム・クルーズ主演の映画「オブリビオン」をもう一度、観たくなりました。
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