■節子への挽歌2525:思考の枠組み
節子
人が書いたものの真意を理解するのは難しいことです。
話している場合は、心身から発するさまざまな情報から、言葉の奥にある意味を受け止めることもできますが、文字の場合はなかなか真意を受け止めにくいことが少なくありません。
特に私の場合、言葉に勝手に自分なりの意味を込めてしまい、しかも反語的な文体が多いので、私の意図は受け止めにくいのかもしれません。
私自身の表現力の低さも、もちろんあります。
私の文章、特にこのブログの時評編は誤読されることが少なくありません。
そう思うのは、時々、フェイスブックでも時評編のブログを紹介するのですが、それへの反応の多くは、私にとってはピント外れのものが多く、時には私の意図とは正反対の受け止め方がされる場合もあるのです。
人には思考の枠組みがあり、それにしたがって、読み解くからでしょう。
しかし、そうはいっても、思考の枠組みは多くの場合、社会の常識に準拠しています。
そうでなければ、社会で生きていくことが難しくなるからです。
ですから、いつの間にか、「思考の枠組み」は自分のそれではなく、予見としての「常識」の枠組みに合わせるようになり、自分での主体的な思考は停止していくことになります。
ところが、愛する人を奪われてしまうと、その「思考の枠組み」が壊れてしまうのです。
壊れるというよりも、与件としての「思考の枠組み」から解放されると言ってもいいでしょう。
ともかく、そんなことはどうでもよくなる。
理解できない現実のなかで、常に真剣勝負で「自分」を生きなければいけません。
ですから、言葉だけの世界を生きている人たちの会話は、虚しく通り過ぎていくだけです。
逆に、生々しい思いのなかで誠実に生きようとしている人に出会うとほっとする。
思考の枠組みから解放されると、さまざまなものがよく見えてきます。
悲しみや寂しさ、弱さや辛さ、怒りや我慢、小賢しさや惨めさ、嘘や真実などがです。
だから、言葉だけの世界には、もう入れなくなってしまう。
今日、私のフェイスブックの記事に、愛する人を失ったKさんが、投稿したり削除したり、心の迷いを見せてくれていました。
そして、自分が壊れているというようなコメントを残してくれました。
その経緯を見ながら、「壊れ」ではなく、思考の枠組みが動いているのだと感じました。
思考の枠組みができてしまうと見えなくなってしまうものが見えている。
思考の枠組みがないために見えてこないものもたくさんありますが、見えてくるものもあるのだと、今日は改めて感じました。
私のブログが誤読されやすいのは、私の思考の枠組みがまだ壊れているかずれているかしているからなのでしょう。
責任は、、やはり私のほうにあるのです。
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