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2014/07/02

■国は民のもの

最近私が観ているテレビドラマに、「テジョヨン」という韓国歴史ドラマがあります。
私が、韓国の歴史ドラマを観るようになったのは、韓国の人たちの歴史観、特に日本との関係に関心があったからです。
ですから、日本とのつながりがある、百済や新羅、高句麗などを舞台にしたものです。
ドラマとしてはあんまり面白くはないのですが、並行して韓国の歴史の本も何冊か読みました。
韓国の学校の歴史教科書も、小学校から高校までのものを読んでみました。
私の持っていたイメージとはかなり違っていました。

「テジョヨン」は、高句麗の滅亡から渤海の起こりまでをテーマにした全134話の大作です。
最初は、シナリオがお粗末だし、演技も中学校の学芸会のようだと思いながらも、それなりに有名な歴史上の人物が出てきますので、歴史を学ぶつもりで観ていました。
ところが最近、次回を見るのが楽しみになってきました。
主役のテジョヨンが、苦労を重ねながら、実にまともになったからです。
何がまともかといえば、人を信ずるようになったのです。
それに、信義を破ることがありません。
テジョヨンの息子のコムは、生まれながらにして、人を疑わず、信義を重んずる若者です。
嘘は言わず、真実をごまかすこともなく、弁解はせず、他者を利用せず、もちろんパフォーマンスなどすることなく、正々堂々と生きています。
観ていて、実に元気が出ます。

もう一つ、2人に共通したことがあります。
2人とも、政治とは「民」を守ることだと考えているのです。
国が滅んでも、そこに民がいれば、国は滅びないという考えです。
国があって民がいるのではなく、民がいて国があるのです。
もちろん「国民」などと言って、民に戦いを強要することはありません。
ただ、民がテジョヨンやコムのために立ち上がることはありますが。
もちろん戦いにおいては、自らが先陣を切ります。
民を逃がすために、自分が残って、敵を防ぎます。
その、民への誠実な姿勢を知った、敵の将軍がテジョヨンを生かす場面もあります。
戦いとは無縁のところに自分を置いて、国民に人を殺せと命ずるようなことはしません。

敢えて蛇足をつけ加えれば、2人とも、まずは相手を信じます。
だから相手もまた2人を信じてついてくる。
単細胞な敵は、だからみんなテジョヨンの味方になります。
そこには力による抑止論ではなく、まずは信頼して一歩を踏み出すオスグッドの精神があります。
ただし、小賢しく小欲に毒されている権力者たちは、力依存の抑止戦略から抜け出せず、結局は自らを滅ぼしていきます。

いささかドラマにほれ込みすぎですね。
しかしコムを演じている役者は実にいいです。
役者の名前も知りませんが、私が役者に惚れたのは初めての体験です。

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