■節子への挽歌2495:ルーティンワーク
節子
わが家の2階には、エアコンが一つもありません。
私の仕事場も2階なので、エアコンはありません。
ですから冬は寒いし、夏は暑いのです。
そこで今年は、仕事場の窓に朝顔を植えることにしました。
プランターに4本の宿根の朝顔を植えました。
湯島のオフィスに行く途中に、毎年、見事に花を咲かす朝顔のように、たくさん花を付けてくれるといいのですが、その花を見るのはたぶん私だけです。
朝顔には申し訳ないことをしましたが、せいぜいよく見るようにしないといけません。
そんなわけで、毎朝の日課が一つ増えました。
朝顔への水やりです。
最近、少しずつですが、家事のルーティンが身につきだしました。
ルーティンという発想は、昔の私には耐え難いものでしたが、いまは反対です。
ルーティンワークの大切さが、少しだけわかるようになってきました。
文化の基本はルーティンなのだということもわかってきました。
少しは成長しているわけです。
節子は今日も昨日のように平安だった、明日もまた今日のようでありますようにと、祈っていました。
私は、どちらかといえば、明日は今日と違いますようにと思うタイプでした。
昨日のような今日は、退屈で無意味だと思うほうでした。
未来は見えないほうがいいと、いつも思っていました。
一度の人生ならば、できるだけさまざまな世界と触れ合いたかったのです。
そのくせ、自分の世界はかなり限定的でした。
とりわけ、世間的な流行の世界には、どうしても心身が動きませんでした。
臆病といってもいいほどです。
節子は逆に、新しい世界への気楽さがありました。
わが家に新しい文化を持ち込んだのは、ほとんどが節子でした。
そうした私と節子との組み合わせが、私たちの世界のバランスをダイナミックに安定させてくれていたように思います。
節子のおかげで、私の世界はかなり広がったといってもいいでしょう。
人の生活は、さまざまなルーティンに支えられています。
節子がいなくなって、改めてそのことを実感します。
家事のほとんどすべてがルーティンなのです。
頭ではわかっていたそのことを、最近は心身でも少し対応できるようになりました。
しかし、節子がつくってくれていたわが家のルーティンも、だいぶ消えてしまいました。
私が壊してきたのかもしれません。
生き方を少し変えなければいけません。
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