■節子への挽歌2503:「なんとなく退屈だ」
節子
哲学者のハイデッガーは退屈を3つに分けて考えているそうです。
ハイデッガーは、著書も生き方も、私には歯が立たない難解なものですが、その退屈論にはちょっと興味を引かれます。
ハイデッガーは、最も深い退屈は「なんとなく退屈だ」というような退屈だというのです。
難しい議論は私にはあまり消化できていませんが、「なんとなく退屈だ」という気分はとてもよくわかります。
節子はよく知っていますが、私はどんなに忙しくても退屈することが少なくありませんでした。
他者から見たらそれなりに楽しんでいそうなイベントの最中にも、あるいは時間破産して何かに追われている時にも、結構退屈なことが少なくありません。
さらにいえば、大好きな遺跡を見に行っても、突然に隣の節子に、「この遺跡を見て何の意味があるのかなあ」とついつい発言してしまうことがあるのです。
その度に、あまり好きでもないのに付き合わされている節子は呆れるのですが、なぜか突然、退屈になる。
風光明媚な観光地に行って、そんなことを言おうものなら、節子は呆れるのではなく怒り出すのですが、一度ならず言ってしまったことがあります。
自分でもよくわかりませんが、ふとそう思うわけです。
友人知人と議論が盛り上がっている、まさにその時に、突然退屈を感じ、話せなくなることもあるのです。
体験して不快に感じた人もいるかもしれません。
自分が好きな行動をしている時でさえそうですから、お付き合い的な集まり、とりわけ結婚式や何かのお祝いなどは、もう死ぬほど退屈です。
隣の人と話していると楽しいですし、美味しい食事もうれしいのですが、どうもどこかから「なんとなく退屈だ」という声が聞こえてくるのです。
ちなみにお葬式で退屈したことはこれまで一度もありません。
ハイデッガーの退屈論を紹介している本を読んでいたら、まさにいつも私が感じていることが、文字通り書かれているのです。
驚くというよりも、奇妙な気になって、一気に読んでしまいましたが、読み終えた後、やはりどこかで「なんとなく退屈だ」と思う気持ちがあるのです。
困ったものです。
ところで、いささか言いよどみますが、「3万年付き合っても退屈しないよ」と節子に言ったことがあります。
それも一度ならず、でしたが、節子は冗談だと笑い流していました。
私が飽きっぽいこともよく知っているからです。
しかし、実はその気分は素直な私の実感でした。
私の数少ない信条の一つは、「嘘をつかない」ことです。
さて〈退屈〉とは何なのでしょうか。
節子がいなくなってから、私には「退屈でない」時は一度もありません。
しかし逆に、ふと「これって何の意味があるんだろうか」と思うこともなくなりました。
これを考えていくと、ハイデッガーよりも深遠な退屈論が書けるかもしれませんが、まとめる能力がありません。
ちなみに、人は忙しい時ほど退屈になるものです。
今日も退屈な1日でした。
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