■節子への挽歌2499:どうして「やる気」が起きないのか
節子
今日は七夕ですが、残念ながら雨になりました。
あまり意味もないのですが、七夕までにこの挽歌のナンバーと節子を見送った後の日数とを合わせようと思っていたのですが、追いつきませんでした。
今日は節子がいなくなってから2502日目です。
3つずれてしまっています。
節子がいなくなってから、もう2500日も経ったのだと思うと、これまた不思議な気がします。
つい最近まで節子と一緒に暮らしていたような気がするからです。
しかし、その一方で、まだ2500日なのかという思いもあります。
節子と会わなくなってから、なが~い時間が経ってしまったような気もするのです。
時間の長さと言うのは、不思議なものです。
もし時間に密度があるのであれば、節子がいなくなってからの私の生きる時間の密度はかなり希薄になっています。
気がつくと無為に過ごしていることも少なくありませんし、第一、「いつまでに何かをしなくては」という思いはほとんどなくなりました。
節子がいた頃は、どんなに大変なことも、それでも明日には日が昇るのだからと頑張りましたが、いまは逆で、もう節子はいないのだからと、あんまり意味のない理屈づけで、無理をしないようになってしまっています。
節子の存在は、いつも私には大きな支えでした。
世界中の人からほめられるよりも、節子に認めてもらいたいという気分がありました。
そういう意識もあって、社会からはどんどん脱落してきているのですが、肝心要の節子がいなくなってしまうと、がんばる支えがなくなってしまい、実に生きにくくなってしまったのです。
そういう意味での「自立」は、私にはどうも無理のようです。
節子に依存した生活が長すぎました。
節子がいないままの人生は、あとどのくらいつづくのでしょうか。
もうしばらくはつづきそうです。
節子がいなくても、何とか生きつづけることができることにも気づきました。
それに、私が生きつづけることは、節子が現世とのつながりを維持しつづけ、節子もまた生きつづけることにもなりますから、もう少しつづくのも悪いことではありません。
やることが今日も山積みでしたが、あんまり進みませんでした。
節子はよく知っていますが、私は「やる気」が起きないと何もできないのです。
しかし、今日はあまりに怠惰でしたので、夜になって罪悪感に襲われています。
困ったものです。
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