■「戦わない権利」と「戦わない義務」
集団的自衛権が閣議で合意されました。
私自身は、これで営々と積み重ねてきた平和への新しい挑戦が崩れ去ったと、とても残念に思います。
しかし、私が絶対に正しいとは限りません。
多くの人たちは、発言はともかく、本心ではむしろ喜んでいるのかもしれません。
そんな気がしてなりません。
平和のために「武装する権利」や「戦う権利」を認めている国が、現在は圧倒的に多いでしょう。
アメリカは、そのわかりやすい国の一つです。
日本では「豊臣秀吉の刀狩りを嚆矢とする政策によって、日本の民衆からは「武装する権利」が奪われたと理解されている。だがそれは、民衆に対して「戦わない権利」を保障するものでもあった」と歴史学者の牧原さんは言っています。
兵農分離制は住民たちに「兵士に取られない権利」を認めていたというわけです。
これは日本に限りません。
古代ギリシアも、あるいは最近私がよく観ている韓国の歴史ドラマにも明確に示されています。
皮肉なことに、大正時代の自由民権運動は、そうした民衆たちを「国民」に仕上げることに荷担しました。
「国民」とは、国家に対して権利と義務を持つ存在です。
国家と無縁には暮らすことが許されません。
そして徴兵制が導入されました。
国の戦いに参加できることは、国民の権利だったわけです。
国の戦いに参加することに喜びを感ずる人間を育てるのが、学校教育の大きな目的でした。
そういう流れを再び反転させたのが、憲法9条でした。
国民であっても戦争に行かなくてもいい。
これは、まさに人類の壮大な実験だったと、私は思います。
しかし、やはりどこかに無理があったようです。
「戦わない権利」と「戦わない義務」。
「戦わない権利」はもはや失われそうですが、「戦わない義務」であれば、個人の信条として守ることができるかもしれません。
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コメント
集団的自衛権の論議のについて奇異に思うのは憲法9条の後段「国の交戰権はこれを認めない」についてほとんど問題にされなかったことである。元法制局長官のお二方とお話しする機会があったが二人ともこの件は「正当防衛権」で解決済みで今は宣戦布告をするような戦争は起こらないから問題にならないとのことであった。しかし、正当防衛だけで済ましていいものか。交戰権が認められない限り捕虜は保護されないし、正当防衛かどうかはあとで分ることで殺人と器物破壊の罪に当たる場合は多々生ずる筈である。前段の「戦力」についても自衛隊は「戦力なき軍隊」ではなく「戦力ある非軍隊」である。何故なら敵前逃亡を処刑出来る軍刑法がないからである。
投稿: 京極浩史 | 2015/02/25 19:29