■節子への挽歌2493:節子の縁
節子
節子のお兄さんからメールが来ました。
といっても、あなたにはお兄さんはいませんでしたね。
この「節子」は、あなたのことではありません。
この挽歌の読者のお1人の妹さんです。
以前、時々、この挽歌のコメントにも投稿してくださった人です。
愛する節子を喪ったことが契機で、この挽歌に出会ってくれました。
最初にメールをもらった時には、宮沢賢治の「永訣の朝」を思い出しました。
私が節子に会う前からとても好きな詩のひとつでした。
その人からのメールのことを書こうというわけではありません。
今日は「節子の縁」の話です。
この挽歌を読んでメールをくださった、少なくとも3人の方は、その愛する人の名前が「節子」なのです。
「節子への挽歌」でネットを調べるとこの挽歌に出会うわけです。
ですから、節子という名前からのご縁と言ってもいいでしょう。
名前は不思議なものです。
愛した人の名前が「節子」だったためか、「節子」という名前には好感を持ってしまいます。
いまでは、「節子」という名前は、私には特別の意味を持ってしまっています。
私と同姓同名の「佐藤修」さんと何回か会ったことがあります。
ある時は、佐藤修さんと食事を一緒にしたこともあります。
なんだかとても奇妙な気分でした。
前にも書きましたが、大学受験の時の隣の人も「佐藤修」さんでした。
一時期、私は「佐藤修の会」をつくろうと思っていたこともあります。
今はそういう元気はもう全くなくなってしまいましたが。
節子のご縁は大事にしなければいけません。
私と一緒で、「節子」に先立たれた人はみんな苦労しているようです。
しかし、そういう人とのメールも、とても奇妙な気分です。
「節子」という文字を見ると、どうしても私の場合は、あなたを思い出すからです。
あなたではない節子さんって、一体どんな人でしょうか。
彼岸に行ったら、会えるかもしれませんね。
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