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2014/07/06

■社会の埒外で生きられるか

今日、関川夏央さんの「二葉亭四迷の明治41年」という、ちょっと古い本を読みました。
この本は、明治20~30年代の文壇で活動した青年たちの話です。
そこにこんな文章が出てきます。

明治20年頃「官」たるの道を余儀なく、また意図してはずれ、そして政客でも学者でもなく実業家でもないなにものか、一般に社会の埒外にあるものと見られた文人あるいは言語による表現者となろうとした一群の青年たちが出現した。
それがたとえば夏目漱石であり、二葉亭四迷なのですが、彼らの生き様は見事に無頼漢的です。
社会から少し外れたところから、社会を見、社会に働きかけていた様子がよくわかります。
そしてその人たちが大きな役割を果たしたことも感じられます。

現在はどうでしょうか。
「官」たるの道を余儀なく、また意図してはずれ、そして政客でも学者でもなく実業家でもないなにものか、一般に社会の埒外にあるものと見られた存在になろうとした一群の青年たちは、いるのでしょうか。
いるとしたら、彼らはどこに向かうのでしょうか。
そして、社会は彼らの存在をどう見るのでしょうか。

いや、そもそも、今の日本では、「社会の埒外」に生きることが許されるのでしょうか。
昨日、お会いした人のお兄さんは、どうやらそうした「生き方」を選んでいるようです。
しかし、いろいろと生きづらいのではないかと思います。
今の時代、社会の埒外と言うことそのものが、存在を許されないのかもしれません。
そうしたなかで、埒外を生きつづけていることを支えているのはなんでしょうか。
私のように、中途半端な生き方をしている者にとっては、感心するしかありません。

人がすべて国家の管理対象になってから、日本では150年程が経過しています。
そして義務教育で個性は抑えられ、型にはめられてきました。
それは社会を平和にし効率化するためには効果的でした。
したがってそこに住む私たち一人ひとりにとっても、生きやすさを与えてくれたと思います。
もちろんそういう生き方を望まない人もいるでしょう。

「社会の埒外」の世界というと、あまり良いイメージは持たれないかもしれませんが(たとえばオメラスの地下室)、「社会の埒外」の世界の存在はとても大事なのではないかと思います。
埒外の存在しない社会は、やはり埒内の人にとっても、生きづらいのではないかと思います。

そろそろ社会からはじき出されそうな年齢になったせいか、そんなことを時々思うようになりました。

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