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2014/07/16

■節子への挽歌2510:さわやかな朝ほど寂しさが募ります

節子
今日も気持ちのいい朝です。
最近はいささか「生活」に負けていますが、さわやかな朝には元気がもらえます。
今朝の青空のように、自分の心も清々しく晴れわたらさなければいけません。
心さえ澄んでいれば、「生活」などには負けません。
生活に負けるとは、心が澄んでいないことの証かもしれません。
問題のすべては、自分が起点なのですから。

前にパスカルの言葉に言及しましたが、私自身、気をまぎらわすために、無理やりいろんなテーマや問題を引き寄せているような気がします。
しかも、素直に取り組めばよいものを、なぜか「問題」を引き起こすように、無意識に動いている自分に時々気づくのです。
たまたまその矛先が向いてしまった人には大変申し訳ないと思います。
考えてみると、以前は、その役割を節子が一手に引き受けていたのかもしれません。
そう思うと、心が痛みますが、そうした役割を果たせることの幸せを、私自身もなくしているさびしさも感じます。
節子の問題を全身で引き受けていたのは、私でしたから。
傷つけ合いながら、支え合う。
そういう伴侶がいなくなってしまったことが、時にはやりきれなくなります。
それに、こんなに気持ちのいい朝を、一緒に喜び合う節子もいない。

皮肉なことに、さわやかな朝ほど寂しさが募ります。
元気なはずが、またちょっと気持ちが沈みそうです。
やはり最近は生きることへの疲れがたまっているようです。
どうしたらよいのか、わからないのが困ったものなのですが。

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