■節子への挽歌2498:挽歌を読んでくれている方からのメール
節子
昨日の記事にコメントが届きました。
4年ほど前に最初のコメントをもらった、お会いしたことのないライムさんという方からのコメントでした。
今夜の記事、胸に詰まりました。こういうコメントをもらうと、不思議なことに少し落ち着きます。
本当に安心して話を聞いてもらえるのは、夫婦だけですね。
私もつくづく実感しております。
自分だけのことではないのだと思うからかもしれません。
挽歌を書いている時は、節子と会話しています。
以前は、会話しだすとすぐに書くことが浮かんできましたが、最近はそうでもありません。
時には節子とのしばらくの会話(もちろん声には出ませんが)だけで挽歌を書くこともなく、終わることもあります。
無言のままに、一緒にボーっとしている時さえあるのです。
それだけ「静かな関係」になってきたのかもしれません。
時には無性に会いたくなることもありますが。
ライムさんからのコメントは、2年ぶりでした。
人の「縁」に意味を感じている私としては、一度、メールやコメントをもらった方のことは時々思い出します。
なかにはわが家まで突然来てくださった方もいますが、その後、音信がなくなると、それなりに気になります。
ですから、久しぶりにコメントやメールが来ると、少しだけホッとします。
先日も、しばらく連絡のなかった方からメールをもらいました。
ホッとしました。
しかし、私の知らない人がどこかで時々、この挽歌を読んでくれていると思うと、実に不思議な気がします。
その人たちとも、ささやかにでしょうが、世界をシェアしているような気がします。
そして、そういう人たちに支えながら私は生きているような気もします。
みんな節子を介してつながった人たちなのですから。
夫婦とはちょっと違うとはいえ、そういう人たちに私は話を聞いてもらっている。
それを幸せだと思わないわけにはいきません。
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