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2014/07/28

■節子への挽歌2522:無言の夫婦

節子
ダウンしてしまいました。
喉をこじらせすぎてしまい、咳が出て、どうしようもありません。
それでまた、昨日は挽歌を書きそびれてしまいました。

日曜日は完全無言、今日もほぼ無言の1日でした。
今日は自宅への来客もあったのですが、私があんまり話さないので、早々と帰りました。
機嫌が悪かったわけではなく、話せなかったのですが、誤解されないといいのですが。

無言のままで、コミュニケーションすることはそう簡単なことではありません。
言葉は、積極的なコミュニケーションのためではなく、むしろ自らの身を守るための「安全保障の手段」として生まれた、と「人類史のなかの定住革命」という本で西田正規さんは書いています。
なるほど、と思いました。
言葉は人間関係の潤滑油なのです。
無言の人と一緒にいると、やはりどこかに不安が生じます。

唯一の例外が、もしかしたら夫婦かもしれません。
夫婦は無言でも、以心伝心するからです。
節子が、隣にいるだけで、心が癒され、気が励まされるというわけです。
喉をやられて声が出なくても、声を出す必要がないのです。
しかし、伴侶でもない相手には、たとえどんなに親しくとも、無言と言うわけには行きません。
私の勘違いかもしれませんが、親子もやはり無言にはなれません。
無言でも人生を共有できた節子のありがたさを、声が出ないこの数日、改めて思いました。

もっとも最近は別の意味で、無言の夫婦、会話が消えた夫婦が増えているといわれています。
私には、人生を無駄にしているように思えてなりません。

ところで、声は少しずつ回復してきています。
明日から活動再開です。
挽歌も、です。

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