■節子への挽歌2494:コミュニティ、家庭、そして夫婦
節子
今日は国会議事堂から霞が関まで歩いてきました。
一昨日は官邸前で集団的自衛権反対の集会が行われていたのですが、今日はいつもの通りの様子でした。
夕方になれば、また人が集まってくるのかもしれませんが、夕方には予定があったので昼間に行ってみました。
肝心の反対活動が展開されていた時には、私は一度も行かなかったのですが、ずっと気になっていたので、もう終わってしまった後だったのですが、罪滅ぼしに歩いてきたわけです。
もう何も痕跡はありませんでしたが、一応、私としては気分的に落ち着きました。
節子に話したら、相変わらず無駄な動きが多いねと笑われそうですが。
それにしても今日は暑いです。
来客が2組あるので、湯島のオフィスに来ていますが、その合間に、明後日お会いする予定の増田レアさんのお父さんである、大仏空さんの生涯を紹介している本を読みました。
「脳性マヒ者と生きる 大仏空の生涯」という本です。
もう25年ほど前に出た本なので入手できず、図書館に頼んで探してもらい、ようやく昨日借りることができたのです。
そこに衝撃的な問題提起がありました。
家庭とコミュニティは両立するかどうか。
そして介護疲れで被介護者を殺めることの意味への問い直しです。
いずれも最近、私が気になってきているテーマなのですが、これほど明確に問題提起されるとたじろいでしまいます。
家族とコミュニティに関しては、それと類似の問題があります。
夫婦と家族の関係です。
夫婦は家族の一要素と捉えられがちですが、必ずしもそうではありません。
大仏さんは、茨城に脳性マヒ者のコロニー「マハラバ村」をつくり、そこで脳性マヒ者たちが家庭をつくりました。
ところが、その家庭がコロニーのまとまりに必ずしも支援的でなかったと、この本の著者は語っています。
コミュニティの基本は家族・家庭であると思っていた私には衝撃的な問題提起ですが、考えてみれば当然すぎるほど当然の話です。
そして、同じ問題が夫婦と家族にもあることを、改めて意識しないわけにはいきません。
この問題は、節子がいなくなった後、ずっと考えてきたことです。
以前、書いたことがありますが、私たちにとっては親子よりも夫婦軸が強かった気がします。
娘たちにはとても申し訳ないことをしたと今頃になって強く反省しています。
愛しすぎる夫婦は決して家族にとっては望ましいものとは限りません。
それは親子関係が強すぎる家族にも当てはまるかもしれません。
ちょっと刺激の強すぎる本を読んでしまいました。
もっと元気な時に読むべきでした。
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