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2014/07/10

■節子への挽歌2502:「生きることはまわりにバラを植えることである」

節子
最近、本を読むことが多くなりました。
だれでもそうでしょうが、自分の考えに合うような本を探すためか、共感できる文章によく出会います。
そのためだろうと思いますが、私自身の生き方への確信が強まっています。
昨日から読み出した本は、「暇と退屈の倫理学」という本です。
改めて自分の生き方や考え方が整理されるうれしさを感じながら読んでいますが、やわらかい本にもかかわらずなかなか進みません。
いろいろと自分自身の生き方を振り返りながら読んでいるせいかもしれません。

その本の序章に、ウィリアム・モリスの言葉が紹介されていました。

わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。
生きることはバラで飾られねばならない。
ちなみに、湯島のオフィスの玄関には真紅のバラの造花が飾られています。
節子が湯島に通っていた時には、できるだけ生花にしていましたが、あまり通えなくなってからは、造花にしていました。
節子が最後に飾った造花が真紅のバラでした。
節子は、真紅のバラが好きだったのです。
もう7年以上経ちますが、今もそのまま、飾っています。
モリスの言葉とは無関係ですが、私はその造花をすぐに思い出しました。
湯島に行くたびに、そのバラを見ているからです。

私の人生は、バラで飾られていたでしょうか。
私も節子も、パンよりもバラを求めていたことは間違いありませんが、バラにはあまり飾られていなかったかもしれません。
モリスの言葉にならえば、バラを植えていたと言ったほうが、私の感覚には合います。
「生きることはまわりにバラを植えることである」というわけです。
そして、節子がもし今も元気だったら、私たちの周りにはバラが咲き出していたかもしれません。
そんな気がしてなりません。

いま節子の位牌の前には、庭のバラの花が供えられています。
その多くは、節子が植えておいたバラです。

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