■節子への挽歌2496:雨で元気になる野草が羨ましくもあります
節子
今日も雨です。
雨だとどうも元気が出ないのが、私の悪い性格です。
しかし、庭の花木も畑の私にとっての天敵の草も、みんな元気になるでしょう。
同じものが、人によっては元気のもとになり、元気を削ぐ原因にもなる。
私のように、「雑多な生き方」をしていると、それがよくわかります。
「雑多な生き方」とは、表現が不遜ですが、「枠を決めない生き方」というような感じで使いました。
先日会った友人から、私が懲りずに重荷を背負い込んだことに関して、「なんで引き受けてしまうのですか」と問われましたが、別に引き受けたわけではなく、ただ断らなかっただけなのです。
信条に反することは断りますが、それ以外は断る理由がないからです。
それが「枠を決めない生き方」であり、その結果が「雑多な生き方」です。
薬も、ある場合は人を元気にし、ある場合は人を害します。
同じ人にとっても、同じものが薬にもなり毒にもなる。
そうであればこそ、自分を生きる面白さと価値がある。
苦も楽も、結局同じことなのに気づけます。
そして、小賢しい知識や狭い考えで、断ったり引き受けたりするのではなく、断らないのが良いということになるわけです.
なにやらこれこぞが小賢しい気もしますが、私にはそれが「素直な生き方」なのです。
何でこんなことを書き出したのでしょうか。
最初に戻りましょう。
節子と結婚したのは、私にはプラスマイナス両面があったはずですが、私はすべてプラスと考えました。
節子も同じです。
であれば、節子との別れもまた、同じことです。
とまあ、こんなことを書こうと思って、書き出したのですが、そういう発想そのものがかなり小賢しいような気がしてきました。
せめて雨に当たって元気になる草のように、最近やけに降ってくる問題も、そこから元気をもらうように発想を変えないといけません。
雨で元気になる野草に学ばねばいけません。
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