■節子への挽歌2491:「徘徊」気分がわかりました
節子
今日は調子がよければ、国会前に行ってみようと思っていましたが、やはりやめました。
どことなく違和感と疲労感があります。
もう1日だけ休もうと思います。
昨日、無理をして畑に行ったのが逆効果でした。
畑に行くくらいなら、国会前に行くべきでした。
そうしたら気が晴れていたかもしれません。
節子がいなくなって、こういう時の時間の過ごし方の難しさに気づきました。
一人で休息をとるということは、それなりに難しいことです。
一人でいると退屈なので、どうしても何かしたくなります。
と言っても、本を読む気力はありませんし、テレビも観ているとなにやらむなしくなります。
節子が相手をしてくれれば、何気ない話で気を紛らわせますが、一人で話すわけにもいきません。
それでついついパソコンに向かったりしますが、メールなどを見てしまうと、また気の重くなる話が舞い込んできかねません。
気があふれている時は、どんなバッドニュースも取り組む課題に転換できますが、気が萎えている時には気持ちがどんよりしてしまいます。
外界との関係はシャットダウンしなければいけません。
だからと言って、寝る気にはなりません。
私の性癖として、明るい時にはなかなか眠る気にはなれません。
節子もそうでしたが。
さて困ったものです。
もしかしたら、こういう状況のなかで、高齢者は「徘徊」に出かけるのかもしれません。
不幸にもまだ私は、その域に達していませんが、そういえば、ちょっとどこかに出かけたい気分になりますね。
人生を一人で過ごすのは、やはり強い精神力が必要です。
私にはあまり向いていないようです。
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