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2014/07/01

■節子への挽歌2489:精神的疲労

節子
風邪は入り口で止まりそうです。
いやもしかしたら、風邪ではなかったのかもしれません。
精神的疲労からのダウンかもしれません。
今日はまだ何となく気だるく、頭の後が重いのですが、大丈夫でしょう。
手のしびれが気になりますが、まぁ、いまに始まったことではありません。
ただし、湯島に行くのはやめました。
昨日、書いた「二葉亭四迷の明治41年」も、半分で眠くなってしまい、読了できませんでしたので、それも読もうと思います。

ところで、精神的疲労というのはどこから生まれてくるのでしょうか。
人と付き合うことから生ずるのでしょうか。
自然と付き合っていると、精神的疲労は生まれないのでしょうか。
そうとも言えません。
梅雨の季節に、畑で草と付き合っていると、それなりの疲労感は生まれるのです。
いくら刈っても、それ以上の速さで成長してくるのですから、自分のやっていることが徒労に終わりかねないのです。
しかし、人との付き合いと違って、その草に癒されることもあります。
それに、成長する若草を見ていると、それだけでも気持ちがさわやかになります。
成長して大きくなったセイタカアワダチソウを見るとムッとしますが、芽を出したばかりだと抜く気にもなれません。
そして結局は裏切られてしまうのですが。

という風に考えていくと、あることに気づきます。
精神的疲労は、他の精神との軋轢によって生まれるのではないかと、いうことです。
つまり自然との間ではあまり精神的疲労が生まれないのは、自然の精神を私たちが理解できていないからです。
それに対して、人との付き合いにおいては、相手の精神が理解できると思ってしまうから、そこに軋轢が生じてしまうわけです。
なるほど、とても納得できる考えです。

このテーマは、古典的SFの「ソラリスの陽のもとに」で扱われています。
いわゆる自然が精神を持って、人間にもわかるように働きかけだしたらどうなるか。
「小さな」精神しか持てない人間は、精神的疲労どころか、精神的破綻に瀕していきます。
小説を読んだ方、あるいは映画を観た方にはわかってもらえると思いますが。

次々と書きたいことが浮かんできてしまいます。
これもまた、精神的疲労(高揚)のせいでしょうか。
ソラリスは「彼岸」に通ずると考えると、この7年の私のいろんなことがこれまでとは違う意味で納得できます。
何となく、そうした事は意識していましたが、改めてかアンが得ると大テーマです。

最近、人との付き合いに疲れてきていること、その解消法は皮肉なことに人との付き合いにしかないこと。それができないのは節子と関係あること。そういうことを書こうと思っていたのに、なぜかソラリスの話になってしまいました。
やはり精神的に疲れているのかもしれません。
困ったものです。

今日は久しぶりに畑に行ってみようと思います。
先日植えた、必要周りが健気に頑張っていると思いますので。
明日は、たぶん精神は正常化しているでしょう。

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