■節子への挽歌2514:無意味な時間をシェアできる人
節子
昨日はある人が、奥さんの手づくりの紫蘇ジュースと梅干を持ってきてくれました。
みんな実に親切です。
時には元気がなくなるのもいいことです。
しかし、そろそろ元気にならないといけません。
もっとも元気がないからと言って、うだうだしているわけでもありません。
それなりにいろいろとやっているのです。
ただ気分がすっきりしないということです。
紫蘇ジュースや梅干ではだめかもしれません。
しかし、わざわざ持ってきてくれる気持ちに出会えると元気をもらえます。
やはり元気になる一番の方法は、良い人に会うことです。
テレビのニュースを見ると、ともかく元気がなくなります。
それにしても、どうしてテレビは、悪い人ばかり報道したがるのでしょうか。
見ていると気が滅入るような人に関する報道が多すぎます。
そういう報道ばかり見ていると、私自身も影響を受けそうです。
テレビの人たちも、きっともう影響を受けていることでしょう。
仕事とはいえ、同情します。
人は、時間を共にする人から大きな影響を受けるものです。
節子がいなくなって7年。
私の性格は良くなったか悪くなったか。
最近、かなり悪くなってきているような気がします。
節子のせいでしょうか、それともテレビ報道のせいでしょうか。
私以上に単細胞だった、節子との無意味な時間がなつかしいです。
無意味な時間をシェアできる人がいることの大切さを、最近、痛感しています。
| 固定リンク
「妻への挽歌13」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌2600:恩送りと迷惑送り(2014.10.14)
- ■節子への挽歌2599:老いることや死んでいくことの意味(2014.10.13)
- ■節子への挽歌2598:「苦悩のない状態とは死んだ状態」(2014.10.12)
- ■節子への挽歌2597:不老不死(2014.10.11)
コメント