■節子への挽歌2553:遺された人への思い
節子
大雨による土砂災害で広島では70人を超える人が亡くなりました。
中東では毎日のように戦いの中で多数の死者が出ています。
毎日、たくさんの人が死んでいる。
そしてたくさんの人が遺されている。
私たちは死者に対して哀悼の意を持ちますが、もしかしたら遺された人にこそ思いをいたさなければいけないのかもしれません。
辛いのは死者よりも遺されたものかもしれません。
最近、つくづくそう思います。
死者を悼む儀式は、遺されたもののためにあることはいうまでもありません。
遺されたものを思いやることこそが、死者への最高の哀悼になることもいうまでもありません。
そこでは、死者と遺されたものは一体となっている。
もし遺されるもののいない死というものがあるとしたら、それは哀しいことなのだろうか、と時に思うことがあります。
死が哀しいのは、遺されるものがいるからです。
それは当然のことです。
自分の死は、自分では体験しようもありません。
だから、自分の死を悲しむことはできない。
死は、遺されたものにしか起こりえないことなのです。
そう思うと、死とはいったいなんなのだろうかという思いがまた起こってきます。
節子にとって、死とはいったいなんだったのだろうか、と。
いや、そもそも節子は死んだのだろうか、と。
臨死体験の話を読むと、死は「至福の体験」でもあるようです。
他者の死は悲しみをもたらしますが、自らの死は至福をもたらす。
それは、ある意味での生の体験かもしれません。
だとしたら、その先にあるのはいったいなんなのか。
死の報道は、心を重くします。
しかし、死は新しい生に通じているのだとしたら、少し心が軽くなる。
そうでもしなければ、心身がもちません。
どうしてマスコミは、毎日毎日、こうもたくさんの死を報道するのでしょうか。
それも、あまりに生々しい物語とともに。
死者や遺された人を悼んでいるようですが、私にはとてもついていけません。
私の心が歪んでいるのでしょうか。
多くの遺された人の悲しみに、私自身の悲しみも乗せて、思いを馳せたいと思います。
思い切り悲しむのがいい。
遺された者の悲しみがわかるのは、自分だけですから。
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