■節子への挽歌2556:いじけた生き方
節子
節子がいた頃にはまだ広がっていなかったフェイスブックというSNSがあります。
私は、しばらく入院しなければいけなくなったのを契機に、これに登録したのですが、おかげで病院にいてもネットで世界とつながっているような気分でした。
この仕組みでは、その気になれば、友だち関係にある人たちを通して、世界の動きにかなりランダムに触れることができます。
それも、しっかりと情報が入ってくるというよりも、何となく見聞できるという感じです。
メールやラインと違って、几帳面に対応する必要はなく、気が向いたらページを開いて、誰かの記事を読んだり、自分で書き込んで呼びかけたりすることができます。
10日間、放っておいてもだれからもとがめられることはありません。たぶん。
一番のメリットは、自分の生活を相対化できることです。
ともすると、人は狭い世界に埋没し、考え方や知識が偏りがちですが、そうしたことを防いでくれます。
だから、私も時々ですが、ほかの人のページをランダムに見るようにしています。
読むというよりも、まさに見る感覚なのですが。
ところで、そうやって他の人の生活を垣間見ていると、私の生活はかなり特殊なのではないかという思いが強まってきます。
まあ、それを意図して、25年前に生き方を変えたのですから、当然のことなのですが。
しかし、みんな陽気に楽しく人生を楽しんでいるのに、私はそういう生き方から大きく外れていることを改めて思い知らされると、時に寂しくもなります。
自分が、社会からはみ出していることや性格的な偏狭性やコンプレックス、あるいは生き方の間違いなどが、なんとなく体感的にわかるのです。
少なくとも、いまの私は、少し、いや、かなり、いじけていることは間違いありません。
だからといって、生き方を変えようとは思いませんが、自分の相対的な位置づけがわかると、他者への配慮は少しだけできるようになります。たぶん。
それにしても、みんな「幸せ」そうで、うらやましい。
最近はフェイスブックで、他者の生き方を見ながら、落ち込むことも少なくありません。
世界が見えることは、必ずしも良いことではないのかもしれません。
早いもので、8月も終わります。
8月は、私にとっては、特別の月になっています。
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