■節子への挽歌2544:分別リサイクルゴミ箱
節子
友人が来ました。
彼は最近少しへこたれています。
そしてこう言いました。
俺はゴミ箱のような存在で、みんなが俺のところにゴミを捨てにくる。
だから、みんながゴミを捨てやすくするために、きれいなゴミ箱にしておかないとだめなんや。
だから、がんばって疲れてしまう。
それを聞いて、もしかしたら私もゴミ箱なのかもしれないと思いました。
そう言うと、彼は即座に、そうや、佐藤さんもゴミ箱や、と言うのです。
でも佐藤さんは、ゴミを分別しているところが俺とは違う。
あんまり「分別」する姿勢はないけどなあ、と思いましたが、そもそも社会のゴミ箱だったという気づきは、私には新鮮でした。
そうか、だから疲れるのだと、何やら訳のわからないまま納得しました。
2時間ほど話していたら、若い友人がやってきました。
もちろん約束していたのですが、彼が今、執筆している本の原稿がどうも「つまってしまっている」ようで、雑談に来たのです。
テーマは「時間」に関する、いささか哲学的なものです。
頭が疲れている私には、いささか難解なテーマです。
2時間ほど話し合って、ほかの人とも話したりしているのと訊いたら、このテーマでは話し合える人はなかなかいないと言うのです。
そうかやっぱり私は分別リサイクルゴミ箱なのだと思いました。
節子もまた、私にとっての分別リサイクルゴミ箱だったことに気づきました。
暑さのせいで、いささか訳のわからない挽歌になってしまいました。
生きていくためには、ゴミ箱は不可欠です。
しかし、私自身がゴミ箱とは、今日、初めて気づきました。
そろそろ受け付け禁止にしないと、パンクしそうですが。
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