■節子への挽歌2530:また一つ荷物を担ぐことにしました
節子
さわやかな朝です。
今日は、認知症予防をテーマにした公開フォーラムを開催します。
パソコンが時々、ダウンしながらも、何とか最小限の作業を終えることができました。
いつものように、自発的に集まった人たちが、できることを出し合いながら、実現するフォーラムです。
今回は、準備のプロセスを楽しむところまではいきませんでしたが、10人を超える人たちが実行委員会に集まりました。
いつものように、私の出番はほとんどありませんが、最後に3分だけ話させてもらうことにしました。
これを契機に、「やさしさのシャワー」を広げる、ゆるやかなコミュニティを立ち上げる提案をすることにしたのです。
これでまた一つ、荷物を担ぐことになるわけです。
最近の私自身の思いとは矛盾するのですが、開催する1週間前に思いついてしまいました。
困ったものです。
こうした集まりをやる時、以前はいつも節子がいました。
節子が表立った役割を担うことはありませんでしたが、いつもどこかで見守ってくれたのと大きな意味でのアドバイスをしてくれていました。
誰にも見えない苦労をしていても、節子だけは知っているという思いが、苦労を苦労と思わせないところがありました。
私にとっては、節子が「お天道様」だったのです。
その節子がいなくなってからも、なぜか惰性でそういう生き方を続けています。
昨日は、作業途中でメインのパソコンがダウンしてしまいました。
体調もそうですが、パソコンまでもがダウンとは、私の生き方が咎められているような気もします。
たしかに、最近の生き方には、自分ながら少しおかしさを感じてはいますが、それに代わる生き方が思いつきません。
いや、生き方はわかっているのですが、そこに移る動機づけがまだ弱いのです。
次の集まりを終わったら、少し自分の生活にもっと入り込もうといつも思いながら、次々と集まりが持ち込まれてしまいます。
引き受けなければいいだけの話だけなのですが、そうはなかなかいかないのです。
それに、自分でやろうと思うことも少なくないのです。
節子がいたら、たぶん引き受けないかもしれませんし、思いつかないかもしれません。
節子がいなくなってから、自分自身の主体性が弱まっているような気もします。
この惰性から、そろそろ抜け出ないといけません。
声が出るようになったのですが、今日は話し過ぎないように自重しようと思います。
それにしても、さわやかな朝です。
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