■「瑣末さ」のずれの拡大
この数日、「瑣末なこと」を少し意識して、ブログを書いてきました。
瑣末なことは、「たかが」という存在ですが、同時に「されど」なのです。
それは、価値観によって変わります。
価値観が違えば、「瑣末なこと」が「重大なこと」になり、その逆も起こります。
以前、私の友人から議論を吹っかけられて、よく「そんな問題は瑣末なことだ」と一刀両断していたことがあります。
例えば憲法条文解釈の話なのですが、私には全く興味のない話なので、ついついそういってしまうことが多かったのです。
しかし、その人にとっては、それは決して瑣末ではなく重要なことだったのです。
そのせいか、最近はその人は私に議論してこなくなりました。
そもそも相手の論点を「瑣末なこと」と言うのは傲慢です。
そうは思いますが、そんな瑣末なことよりも大事なことを議論しようという自分の思いが先行しがちです。
私が大事なことと思っていることは、相手にとっては瑣末なことかもしれないという思いには至っていないわけです。
これを、「ドングリに背比べ」というのでしょうか。
最近、いろいろな問題に関わって感ずるのは、人によって「瑣末さ」の対象がまったく違っていることです。
私にはとても大切なことで、いろいろと考えに考えて相手に伝えると、いとも簡単にそんなことはどうでもいいというような返答が返ってくることも少なくありません。
逆の場合もあります。
それが多分、他者と付き合う煩わしさかもしれません。
時にやりきれない気分になります。
何が本当に重要なことなのか。
それは、その人の生き方に大きく影響されます。
社会が多様になってくると、生き方もまた多様になってきます。
「瑣末さ」のずれは、ますます広がり深くなっていくでしょう。
生きづらい社会になってきました。
「瑣末さ」のずれを、創発的な方向で良いものに変えていく仕組みが育つといいのですが。
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