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2014/08/02

■節子への挽歌2527:不幸の認識は過ぎ去った喜びの記憶とともにある

節子
今日は朝早く起きて、畑に行こうと思ったのですが、まだ必ずしも体調が戻っていないので、一人で出かけてダウンするといけないため、庭の草木への水やりだけにしてしまいました。
庭の椅子にしばらく座って、草木をみていたら、若い頃、家族ででかけた夏山での朝を思い出しました。

16世紀に生きた若者が残した「自発的隷従論」と言う小論があります。
以前、時評編で紹介しましたが、その本を読んだ友人から昨日手紙をもらいました。
それで思い出しましたが、その著者のラ・ボエシは、こう書いています。

人は、手にしたことがないものの喪失を嘆くことは決してないし、哀惜は快のあとにしか生まれない。
また、不幸の認識は、つねに過ぎ去った喜びの記憶とともにあるものだ。
時評編的にはこれに必ずしも同意はできないのですが、挽歌編的にはとても納得できます。
幸せと不幸は、コインの裏表なのです。
だから不幸を嘆いてはいけません。
不幸を紛らわすためには思い出に浸ればいいわけですが、そうすればますます不幸を強く感ずることになるでしょう。
人生とはまことにややこしく皮肉です。

今日は手賀沼の花火大会です。
朝から、その告知の花火があがっています。
花火を打ち上げる会場は、わが家のすぐ近くなのです。
ここに転居した理由の一つが、花火が目の前で見られることだったのです。
この花火大会には、私たちの喜びの記憶と悲しみの記憶が、いずれもたくさん詰まっています。
だから、節子がいなくなってからは、あまり心静かに花火を見ることができなくなっています。
喜びの記憶も悲しさの記憶も、強すぎると心を安らかにはしてくれません。
なにやら胸騒ぎのする1日になりそうです。

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