■問題は瑣末なところに原因があるものです
この1か月、いろんな意味で「不幸」に覆われたような生活をしています。
しかし、実はその「不幸」は「瑣末なこと」が原因であることも少なくありません。
たとえば、今月の5日に認知症予防ゲームの公開フォーラムを開催しました。
資料づくりや受付名簿などを作ったり、参加者との連絡などを私のパソコンでやっていたのですが、開催の3日前からパソコンがおかしくなり、時々ダウンしたり、データが急に文字化けしてプリントできなくなったりしだしました。
一番大変だったのは、連絡先を入れておいた参加者名簿を作成した途端に、パソコンが固まってしまい、データが消去されたことです。
開催日の直前日は、パソコンが20分単位でダウンし、いささかストレスがたまってしまいました。
私のパソコンはもう10年ほど使用しているXPですので、ハードがもう限界を超したのだろうと思っていました。
ところが、5日のフォーラムのスタッフメンバーの内村さんにその話をすると、ゴミがたまっているのではないかと言われました。
私のパソコンのサポーターでもある坂谷さんも同意見です。
それで翌日、パソコンの掃除をすることにしました。
たしかにファンの前にゴミがたまっていました。
それを取り除いたら、それ以来、パソコンは何の支障もなくなったのです。
マシンが壊れたのではなく、原因はゴミのために冷却が出来なくなっていただけなのです。
またパソコンを買い替える機会を失してしまいました。
このように、かなり深刻な問題であっても、気づいたらその原因は実に瑣末なところにあることは、時々経験します。
パソコンの場合は、まあそれに気づかなくても、買い替えによって問題は解決しますが、そうでない場合も少なくありません。
その最たるものは、人間関係です。
殺人や自殺にいたる不幸な人間関係も、その出発点は瑣末な行き違いであったかもしれません。
早い時期で、それに気づけばいいのですが、瑣末であるが故に見過ごしてしまいかねません。
私のように、中途半端に「寛容」で、しかも論理的でない人間は、特に心しなければいけません。
考えてみると、最近の「不幸」の一因は、私のそうした性格にあることに気づきます。
原因が瑣末なことにあることは、イノベーションにも当てはまります。
大発見やヒット商品の開発には、そうした物語がたくさんあります。
「瑣末なこと」をもっと大切にしなければいけません。
それはわかっているのですが、なかなかそうはできません。
それを反省して、生き方を変えれば、山のように積み重なっている不幸から解放されるかもしれません。
さて、パソコンの掃除の次は、何に取り組みましょうか。
今日も暑いですが、さわやかな朝です。
しばらく書かなかったブログをまた書き出そうと思います。
世間が嫌いだからと言って、そこから無縁で生きることはできませんので。
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