■節子への挽歌2535:弱音常習犯
節子
最近の私の弱音記事や弱音発言のせいで、いろんな人が心配してくれて、メールや電話をくれます。
困ったものです、などと言うと、ひんしゅくを買いそうですが、弱音を吐くことはどうもあまり常識的ではないのかもしれません。
私の場合、「弱音」を発する基準がきっと非常に低いのです。
私に会ってもらうとわかるのですが、何だ、元気じゃないかと言われるほどなのです。
だから「心配しただけ損だ」と言うことになりますので、また言っている、という程度に軽く流してください。
それともちょっとつながるのですが、今日、私のフェイスブックでいろんなやりとりがなされていました。
ある人が長いコメントを書いてくださったのです。
私のよく知っている人です。
その文章のなかに、「私は佐藤さんのような命知らずな発言はそら恐ろしくてできません」と書かれていました。
え! と驚きました。
昔はともかく、最近はそんな過激な発言はしていないつもりですが、言葉の受け止め方は人それぞれですから、注意しないといけません。
これは、節子からいつも指摘されていたことです。
湯島に節子が来ていた頃、来客の方が帰ると節子は私に、あんな発言は失礼でしょうと時々指摘してくれました。
私には全く失礼だとは思えないことが多かったのですが、今から考えるとたぶん「失礼」だったのでしょう。
ホームページやブログも、よく書きすぎて、節子から削除を指摘されたこともあります。
話と違って、書いたものは確かに言われてみると失礼さもわかります。
しかし、昨今はだれもチェックしてくれないので、また粗雑で暴力的な文章を書いてしまっているのかもしれません。
人の性格は、なかなか直りません。
弱音を吐いていると2つの効果があります。
まず助けてくれる人が現れます。
しかし、これも2種類あって、実は私の負担がさらに重くなる場合もありますので、困らせる人も現れるともいえます。
もう一つは、弱音を吐くと少し気が楽になります。
しかし、これも弱音を吐いているうちに、ますます状況が悪化することもあります。
喉が悪いなと話し続けていると、いつになっても喉が治らないということです。
自分の言葉に、自分の心身が素直に従っていくというわけです。
それらをすべて総合しても、私の弱音を吐く生き方は変わらないでしょう。
この生き方が私の身についたのは、たぶん節子のおかげです。
どんな弱音を吐いても私を信頼していた節子の存在は、私には大きな支えだったのです。
だからいまでは、どんなことにもあまりへこたれません。
だから弱音を気楽に吐けるのです。
ですからご心配ありませんように。
ただ命知らずにはなりたくないので、何とかしなければいけません。
でもまあ、いまさら命にこだわることもありませんが。
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