■節子への挽歌2549:発心
節子
録画していた「古寺名刹」の神護寺を観ました。
京都の高尾にある、紅葉の美しいお寺です。
私の好きなお寺の一つです。
節子とも2回ほど参拝したと思います。
最後に行った時も、たしか紅葉の季節だったように覚えています。
しかし、最近の私の記憶はいささか自信がありません。
番組の最後に、神護寺の谷内貫主が、お寺を単に癒しの場ではなく、発心の場にしてほしいというような話をしていました。
不正確かもしれませんが、私にはそう聞こえました。
そして、癒しとは発心なのだと思ったのです。
この1か月、心身ともにすっきりせずに、だらだらしています。
何もしていないわけではなく、外部から見たらそれなりに動いてはいるのですが、自分では気が入らない、とても居心地の悪い状況です。
しかも、歳をとるということはこんなことなのかと、奇妙に覚ったような気持ちが時々起こってくるのです。
神護寺貫主の言葉が、心身に響きました。
いま必要なのは「発心」、つまり何かをやろうと心を起こすことだ、と。
それにはやはり「場所」が必要なのです。
それを忘れていました。
たまたま明日は、施餓鬼でお寺に行きますが、施餓鬼で混雑している宝蔵寺は発心の場にはならないでしょう。
さてどこがいいでしょうか。
神護寺から不動明王が移ってきている成田山新勝寺がいいかもしれません。
場所の力を借りないと、動けなくなることもあるのです。
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