■節子への挽歌2546:うっとうしくない助け合いの関係は夫婦だけ
節子
喉の調子が悪いことが広まってしまいました。
今日はまた熊本のハチミツが届きました。
「助けて」と言える社会へというテーマのサロンもやったことがありますが、助けてなどと言わずとも、困っている状況をさらけだせば、みんなで助けてくれるものです。
しかし、自らをさらけだすのは、それなりに難しいのもまた事実です。
さらに問題は、助けてもらったら、助け返すことになりますが、それがまた大変です。
注意しないと、「ポトラッチ」の世界になりかねません。
昔は、日本にも「恩送り」というペイフォワードの伝統があったようですが、最近のように、社会の仕組みが変質してくると、それもなかなか簡単ではありません。
そのためもあって、閉じられた関係性のなかで、貸し借りをバランスしていこうという意識が強くなりがちです。
そうした感覚があまりないはずの私でさえ、最近少しそうした意識が生まれてきています。
それに、「助け合う」関係は、ある意味では「うっとうしい」ものです。
助けたり助けられたりすることは、とても気分がいいものですが、助けた記憶や助けられた記憶はあまり気分のいいものではありません。
それが「しがらみ」を生み出し、相互の関係を歪めることにもなりかねません。
うっとうしくない助け合いの関係は、夫婦だけかもしれません。
言い換えれば、そうした「覚悟」がないと、夫婦関係は維持できないかもしれません。
以前は家族もそうだと思っていたのですが、どうもそうではないようです。
親子はどうしても対等の関係にはなれませんし、兄弟姉妹もいつか生活基盤を異にしていくからです。
家族は、むしろペイフォワードの世界を学ぶ場だったともいますが、いまは必ずしもそうではなくなってきています。
隣の人が、香川のお土産のピオーネをお裾分けしてくれました。
節子に供えさせてもらいました。
節子がいたら、お近く同士の付き合いはもっと育っただろうなと時々思うことがあります。
ここに転居して、2年ほどで節子は病気になってしまいました。
それでも今も隣り近所のお付き合いがあるのは、節子のおかげかもしれません。
「助けて」と言う前に、困っていることをさらけだすのがいい、というのは私の発想です。
私よりも少しだけ「見栄っ張り」だった節子は、賛成ではないかもしれません。
時々、そんなみっともないことをするなと言っていました。
それに物欲しげな言動(困っているということはそういうメッセージを含意します)は、節子が一番嫌うことでもありました。
今の私の言動には、節子は眉をひそめているかもしれません。
ちなみに、私の喉はほぼ回復しました。
ご心配をおかけしました。
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