« ■節子への挽歌2570:人は関係性の中で育っていく | トップページ | ■地方創生という発想 »

2014/09/15

■節子への挽歌2571:死ぬとき心はどうなるのか

節子
昨夜、NHKスペシャルでテレビで「臨死体験 死ぬとき心はどうなるのか」をやっていました。
立花隆さんが、世界各地の専門家を訪ねての思索ドキュメントです。
立花さんも74歳。
別れた奥様のがんに続いて、ご自身もがんを患って、死を意識されていると思いますし、何よりも歩く姿や語りの表情に、これまでとは違う立花さんを感じました。
やはり、人は自らの周りにさまざまなことが起こると、世界を変えていくのかもしれません。

番組の最後に、立花さんはレイモンド・ムーディ博士を訪ねます。
ムーディ博士は臨死体験をし、死後の世界を信じるようになった人ですが、立花さんをこのテーマに誘った人でもあるそうです。
それで、立花さんは会いに行きたくなったと言います。
死んだら心は消えてしまうと考える立花さんとはムーディ博士の考え方は違いますが、この番組で改めて思索した立花さんの考えは変わったのでしょうか。
久しぶりに会った立花さんに、ムーディ博士は「お元気ですか」と挨拶をしますが、立花さんは「そうでもありません」と応えます。
実に象徴的な一瞬でした。

番組では、最後に立花さんがこう語っています。

今回、死ぬことがそれほど怖いことじゃないということがわかった。
人生の目的というのは心の平安。
人間の心の平安を乱す最大のものというのは自分の死について頭を巡らせること。
いい夢を見たいという気持ちで人間は死んでくことができる。
立花さんは「心の平安」を「アタラクシア」という言葉で表現していました。
私には違和感がありました。
これでは古代アテネのエピキュロスと同じではないか、と思ったのです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2010/02/post-2edd.html
人生の目的はアタラクシアではなく、エラン・ヴィタール(生の躍動)ではないかと、私は思っているからです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2009/01/post-a6fe.html
そして、以前の立花さんは、私には輝いて見えていたのです。

ムーディ博士は「客観的に考えてみれば死後の世界があるとはっきりいえる自分に矛盾を感じます。でもそもそも人生は死ぬまで理解できないものなのです。私たちは自分が紡いできた物語つまり人生とは何だったのかその意味を知りたいと思いながら最後のときを迎える。そして臨死体験が待っている。私もあなたも好奇心を抱きながら人生を全うしていくのでしょう」と立花さんに話します。
そして、また向こうで会えると言うのです。
立花さんの答えは、残念ながら画面には出てきませんでした。

立花さんが最後に語った「いい夢を見たいという気持ちで人間は死んでくことができる」というのは、これまでも多くの臨死体験者が語った、大きな幸せの光に包まれることです。
節子もきっと、その光に包まれながら旅立ったのでしょう。
その時に、節子は「生の躍動」を感じたでしょうか。
私の関心事はそこにあります。

私もいつかそれを体験するわけですが、そう思えば、自分の死は何の恐れもありません。
ただ私には、残された者たちのことが気になるだけですが、それもまた勝手な思い込みなのかもしれません。
それを「執着」「煩悩」というのかもしれません。

|

« ■節子への挽歌2570:人は関係性の中で育っていく | トップページ | ■地方創生という発想 »

妻への挽歌13」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ■節子への挽歌2571:死ぬとき心はどうなるのか:

« ■節子への挽歌2570:人は関係性の中で育っていく | トップページ | ■地方創生という発想 »